リトのマンションを出ると、外の空気はかなり冷え込んできていた。
さっきまでの部屋の静けさが、まだ頭の中に残っている。
そのまま私は、美緒のマンションへ向かった。
ドアを開けると、いつもの声と甘くいい匂いが広がる。
「おかえり」
その一言で、少しだけ肩の力が抜ける。
さっきまでとは違う、柔らかい空気。
「ただいま」
コートを脱ごうとすると、美緒が背後に回り、肩からそっと脱がせてくれる。
私がリビングのソファーに腰を下ろすと、美緒は自然に部屋着を差し出した。
「コーヒー淹れるね」
そう言って、美緒はキッチンへ向かった。
ソファーにもたれながら、私はリトとの会話をぼんやりと思い返す。
部屋には、ストーブの上のケトルのお湯が沸く音と、豆を挽く音だけが静かに広がっていた。
やがて、いつものコーヒーの良い香りが部屋に漂う。
「はい、コーヒー」
美緒がカップを手渡しながら隣に座る。
「ああ、ありがとう」
私はカップを受け取り、リトのマンションであった話をゆっくりと話した。
タレントたちのこと。
給料の仕組み。
VISAのこと。
そして、ローンという考え方。
美緒は途中で遮ることなく、静かに聞いていた。
一通り話し終えると、美緒は少しだけ考えてから言った。
「それ、英語でちゃんと形にした方がいいと思う」
私は美緒を見る。
「英語?」
美緒は頷いた。
「フィリピンは英語が公用語だし、ローンの契約書とか、領収書とか。ちゃんとした英語で作った方がいいと思う。
その方がタレントたちも安心するし、ちゃんと理解できると思う」
確かに、それはリトの話だけでは抜けていた部分だった。
言葉としては成立していても、まだ“形”がない。
美緒は続ける。
「あと、こういうのって日本語だけだと誤解されやすいから。英語の方が逆にシンプルで伝わることもあるよ」
その言葉で、少しだけ景色が変わった気がした。
リトの話と、美緒の考えが繋がっていく。
私は自然に頷いていた。
「じゃあ、美緒も一緒にやるか」
美緒は少しだけ驚いた顔をしたあと、小さく笑った。
「いいの?」
「英語、必要だろ」
「英語だけ?」
美緒が少し口を尖らせ、上目遣いで聞く。
「ううん、美緒が必要だから」
美緒の表情が柔らかくなる。
「じゃあ、やる」
美緒はクスッと笑いながら言った。
そこからは、仕事の話が少しずつ形になっていった。
英語の契約書。
領収書のフォーマット。
伝え方の整理。
静かなのに、確実に“形”ができていく時間だった。
そして一通り話が終わると、部屋の空気がまた少し変わった。
仕事のスイッチが切れる音みたいに。
美緒が小さく笑う。
「じゃあ、続きはあとでね」
その言葉のあと、部屋の空気がふっと軽くなる。
「ねぇ、いつものしてあげよっか?」
「あっ、うん」
「……おいで」
美緒が膝を軽く叩く。
私は何も考えず、そのまま美緒に身を預けた。
指先が耳に触れ、ミミククリンの少し冷たい感触と、美緒の温かい体温だけが伝わってくる。
何も言わない時間が、少しだけ続く。
外の世界の話は、もうその瞬間には存在していなかった。
さっきまでのビジネスの話が遠くに感じるくらい、静かな時間だった。
それだけで、十分だった。
ミミククリンも、いつもよりゆっくりだった。
まるで、美緒に包まれているような安心感があった。
外のことは、しばらくどうでもよくなっていた。

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