167話「必要な人」

リトのマンションを出ると、外の空気はかなり冷え込んできていた。

さっきまでの部屋の静けさが、まだ頭の中に残っている。

そのまま私は、美緒のマンションへ向かった。

ドアを開けると、いつもの声と甘くいい匂いが広がる。

「おかえり」

その一言で、少しだけ肩の力が抜ける。

さっきまでとは違う、柔らかい空気。

「ただいま」

コートを脱ごうとすると、美緒が背後に回り、肩からそっと脱がせてくれる。

私がリビングのソファーに腰を下ろすと、美緒は自然に部屋着を差し出した。

「コーヒー淹れるね」

そう言って、美緒はキッチンへ向かった。

ソファーにもたれながら、私はリトとの会話をぼんやりと思い返す。

部屋には、ストーブの上のケトルのお湯が沸く音と、豆を挽く音だけが静かに広がっていた。

やがて、いつものコーヒーの良い香りが部屋に漂う。

「はい、コーヒー」

美緒がカップを手渡しながら隣に座る。

「ああ、ありがとう」

私はカップを受け取り、リトのマンションであった話をゆっくりと話した。

タレントたちのこと。

給料の仕組み。

VISAのこと。

そして、ローンという考え方。

美緒は途中で遮ることなく、静かに聞いていた。

一通り話し終えると、美緒は少しだけ考えてから言った。

「それ、英語でちゃんと形にした方がいいと思う」

私は美緒を見る。

「英語?」

美緒は頷いた。

「フィリピンは英語が公用語だし、ローンの契約書とか、領収書とか。ちゃんとした英語で作った方がいいと思う。

その方がタレントたちも安心するし、ちゃんと理解できると思う」

確かに、それはリトの話だけでは抜けていた部分だった。

言葉としては成立していても、まだ“形”がない。

美緒は続ける。

「あと、こういうのって日本語だけだと誤解されやすいから。英語の方が逆にシンプルで伝わることもあるよ」

その言葉で、少しだけ景色が変わった気がした。

リトの話と、美緒の考えが繋がっていく。

私は自然に頷いていた。

「じゃあ、美緒も一緒にやるか」

美緒は少しだけ驚いた顔をしたあと、小さく笑った。

「いいの?」

「英語、必要だろ」

「英語だけ?」

美緒が少し口を尖らせ、上目遣いで聞く。

「ううん、美緒が必要だから」

美緒の表情が柔らかくなる。

「じゃあ、やる」

美緒はクスッと笑いながら言った。

そこからは、仕事の話が少しずつ形になっていった。

英語の契約書。

領収書のフォーマット。

伝え方の整理。

静かなのに、確実に“形”ができていく時間だった。

そして一通り話が終わると、部屋の空気がまた少し変わった。

仕事のスイッチが切れる音みたいに。

美緒が小さく笑う。

「じゃあ、続きはあとでね」

その言葉のあと、部屋の空気がふっと軽くなる。

「ねぇ、いつものしてあげよっか?」

「あっ、うん」

「……おいで」

美緒が膝を軽く叩く。

私は何も考えず、そのまま美緒に身を預けた。

指先が耳に触れ、ミミククリンの少し冷たい感触と、美緒の温かい体温だけが伝わってくる。

何も言わない時間が、少しだけ続く。

外の世界の話は、もうその瞬間には存在していなかった。

さっきまでのビジネスの話が遠くに感じるくらい、静かな時間だった。

それだけで、十分だった。

ミミククリンも、いつもよりゆっくりだった。

まるで、美緒に包まれているような安心感があった。

外のことは、しばらくどうでもよくなっていた。

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