早苗に夕方には帰ると告げ、マンションを出た。
恵美さんに連絡すると、自宅に来るようにと言われ、そのまま彼女のマンションへ向かった。
インターホンを押すと
「鍵は開いてるから入ってきて」と声がする。
ドアを開けた瞬間、シャンプーや入浴剤の甘い香りが漂ってきた。
恵美さんはシャワーを終えたばかりなのだろう。髪がまだ濡れている。
「準備するから待ってて」
そう言うと、すぐにドライヤーの音が響き始めた。
ソファーに腰を下ろして待っていると、やがて恵美さんがリビングに入ってきた。
「江崎さんの件はどうなったの?」
顔を上げた瞬間、スタンドミラー越しに、着替えをする恵美さんの後ろ姿が映った。
背中一面の刺青。
昔、何度も見たことがあるはずなのに、今日は違って見えた。
あの頃は、ただの飾りのように思っていた。
だが今は違う。
それは、この世界に入るための切符のように見えた。
覚悟を刻んだ証のように。
「あなた、聞いてるの?」
声に我に返る。
「あっ、はい。今日、連絡するようにしてます」
そう答えながらも、頭の中はあの刺青でいっぱいだった。
恵美さんを車に乗せ、マンションの内見に向かった。
女の子たちが待機するための部屋だ。
不動産屋は恵美さんの知り合いらしく、借りる目的も承知しているようだった。
新築の4LDK。
広く、明るく、申し分のない部屋。
私と早苗の1LDKとは、比べものにならなかった。
「ここ、どう思う? あなたの仕事場になるのよ」
「いいと思います」
そう答えると、恵美さんは不動産屋にこの部屋を押さえておくよう伝えた。
その後は指示通り、家電量販店や家具屋を回った。
一通り用事を済ませ、最後にファミレスへ入った。
向かいに座る恵美さんを見ながら、私はまだあの背中を思い出していた。
思い切って聞いてみる。
「背中の刺青って、どこで入れたんですか?」
恵美さんは笑い、アイスティーのストローをくるくる回す。
「今さら? 何度も見たことあるでしょ。どうして? あなたも彫りたいの?」
「はっきり決めたわけじゃないですけど……興味はあります」
恵美さんは少しだけ考え、上目遣いで言った。
「ふーん。あなたが本気なら、紹介してあげるわよ」
恵美さんをマンションに送り、自宅へ戻る車中で刺青のことを考えた。
入れるか、入れないか。
気づけば、そんな迷いはしていなかった。
早苗にどう言うか。
そればかりを考えていた。
その時、ようやく理解した。
私はもう決めていたのだ。
刺青を入れることを。
そして――裏社会で生きていくことを。
その日、私は戻る道を、自分の手で閉じた。


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