建物の扉を開けると、ブザーが鳴った。
廊下の奥から、微かな人の気配がする。
「はーい」
女性の声とともに、こちらへ歩いてくる足音が聞こえた。
消毒液や石鹸の混じった匂いが鼻をつく。外から見れば普通の民家だが、一歩中に入ると雰囲気はまったく違っていた。
普通の街にひそむ、もう一つの顔。
出てきたのは中年の女性だった。
にこやかな笑顔で膝をつき、スリッパを差し出し「どうぞ」と手招きする。
「客ではないんですが」
そう言うと、その笑顔は一瞬で消えた。
真顔になり、目に警戒心が宿る。
「おたく、誰?」
冷たい声だった。
佐藤さんという人に頼まれて、江崎さんに会いに来たと伝える。
中年女性は黙ったまま私を値踏みするように見つめ、そのまま廊下の奥へと歩いていった。
奥から小さな話し声が聞こえる。
やがて戻ってくると、無言で手招きした。
廊下の突き当たり、一番奥の部屋へ通される。
途中いくつかの部屋があり、そこには女性が数人座っていた。
私が前を通ると、皆が好奇の目でこちらを見る。
通された部屋は和室で、こたつが置かれていた。
そこに座って待つよう言われる。
しばらくすると足音がし、襖が静かに開いた。
無言で入ってきたのは、小柄な老婆だった。
私の前に座り、静かに言う。
「私が江崎です」
一見、どこにでもいそうな普通のお婆さんだ。
だが、目が違った。
長年この世界で生き抜いてきた時間が、そのまま宿っているような目だった。
若い女の子が熱いお茶とお茶菓子を盆に乗せて運んでくる。
江崎さんは私にお茶を勧め、自分も湯呑みを手に取り、じっとこちらを見た。
「ご用件は?」
私は佐藤さんの件について説明した。
話している間、江崎さんは一度も目を逸らさなかった。
やがて目を閉じ、一口お茶を飲み、ゆっくりと口を開く。
「佐藤氏のことは覚えてるよ。お金は返すつもりだった。
しかし本人がいなくなってしまってね。返そうにも返せなかった。
その当時、私もこの街を離れなければならなくなってね……それでそのままだ。懐かしい話だよ」
そう言って、どこか遠くを見るように微笑んだ。
「お金は用意する。いつでも連絡しておくれ」
私は連絡先を交換し、店を出た。
どんな展開になるのかと身構えていた私は、正直ほっとしていた。
だが実際に受け取りが終わるまでは、気を抜くわけにはいかない。
このときはまだ、この縁がその後も続いていくとは思っていなかった。

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