朝の冷たい空気が、ドアの隙間からゆっくり入り込んでくる。
「寒そう……」
後ろから、美緒の小さな声。
靴を履きながら「今日は冷えてるな」と返すと、美緒が少しだけ笑った。
「夜はもっと寒くなるよ」
「ああ、だろうな」
そんな何気ない会話をしながら、ドアに手をかける。
「……いってらっしゃい」
自然に落ちてきたその言葉に、一瞬だけ動きが止まる。
クリスマスの頃から、美緒は部屋を出る時そう言うようになった。
今は、その言葉を聞くことが当たり前みたいになっている。
振り返ると、美緒はいつもの柔らかい顔でこちらを見ていた。
「ああ……行ってくる」
そう返して部屋を出る。
けれど、エレベーターを待つ間も、さっきの声が妙に耳に残っていた。
エレベーターを降りると、外の空気は思っていた以上に冷たかった。
吐いた息が白く広がって、ようやく年末の空気を実感する。
さっきまでいた部屋の温度が、まだ身体のどこかに残っていた。
車に乗りエンジンをかける。
けれど頭の中には、最後に聞いた声がまだ残っていた。
——行ってらっしゃい。
ただそれだけの言葉。
なのに、不思議なくらい耳に残る。
以前の美緒なら、きっとそんなことは言わなかった。
必要以上に踏み込まず、近づきすぎず。
どこか一歩引いた距離を保っていた。
けれどクリスマスを過ぎた頃から、少しずつ変わり始めていた。
そして、自分もまた、その言葉をこんなに意識することはなかった気がする。
昨夜と今朝で、その距離はさらに変わった気がしていた。
時計を見ると、まだ昼前だった。
茉莉花に戻れば、すぐに現実の空気に引き戻される。
年末は店も慌ただしい。
考えることはいくらでもある。
それでも、ふと口元が緩みそうになる。
さっきまでの静かな時間が、まだ身体の奥に残っていた。
茉莉花に戻ると、事務所の中はすでに慌ただしく動いていた。
電話の音。
里奈ちゃんや綾さんの声。
そのまま二階の部屋に行こうと階段を上りかけた時、リビングのドアが開いた。
「おかえり」
最初に気付いたのは早苗だった。
「ただいま」と返しながら階段を上がると、早苗も後ろをついてくる。
部屋に入りコートを脱いでいると、早苗がそれを受け取りながら、ちらりとこちらを見る。
「なんか今日、いつもと違うよね」
「そうか?」
「うん。なんか機嫌良さそう」
その言葉に、思わず苦笑が漏れる。
「気のせいだろ」
「ふーん?」
完全には納得していない顔。
けれど早苗はそれ以上深く聞かず、机の書類を軽く叩いた。
テーブルに広げられた予定表。
「それより年末と年始なんだけど、出勤したいって子何人かいるんだよね」
女の子たちのスケジュール表を手に取る。
大晦日と元旦にも、何人かの名前が書き込まれていた。
「これじゃ、早苗も今年は正月休みないなぁ」
「うん。里奈と綾さんも事務所で年越しになりそう」
仕事の話に切り替わると、頭の中も自然と現実へ戻っていく。
里奈ちゃんは撮影関係の調整で動いているが、ホテルも混雑してるらしく、撮影は年明けになるらしい。
綾さんも年末年始の出勤調整でバタついているみたいだった。
「弘君から連絡あって、年末年始は予約入ってるらしいから、出勤する子が決まったらメールしなきゃなんだよね」
早苗はスケジュール表を見ながら、携帯を手に少し考え込むように言う。
この時期は、誰もが少し慌ただしい。
それでも時折、不意に朝の空気が頭をよぎる。
コーヒーの香り。
肩に触れた温もり。
「昨日より、近いね」
あの小さな声。
書類を見ながら、小さく息を吐く。
「どうしたの?」
早苗が顔を上げる。
「いや、なんでもない」
そう返しながら、視線を予定表へ戻した。
気付けば、外は少しずつ夕方の色に変わっていた。
年末の空は暗くなるのが早い。
事務所の窓の外にも、街の灯りが少しずつ増え始めている。
「じゃあ、私はこっち確認しとくね」
早苗が書類をまとめながら言う。
「ああ、頼む」
軽く返し、ソファーから立ち上がる。
そのままコートに手を伸ばすと、早苗がこちらを見る。
「もう出るの?」
「ああ。ちょっと月下美人に行ってくる。ほら、今日は弘が忘年会するって言ってただろ」
窓の外を見ながら言った。
「あっ、そうか。忘年会、何時からだっけ?」
「店が落ち着いてからだろうな」
「あなたは飲まないから飲み過ぎはないけど、気を付けてね」
「ああ」
短く返し、事務所を出る。
外に出ると、空気は朝よりさらに冷えていた。
白い息を吐きながら車に乗り込む。
向かう先を考えるより先に、足は自然と美緒のマンションへ向かっていた。
それを不自然だとは、もう思わなくなっていた。
マンションのインターホンを押すと、少しして扉が開く。
「おかえり」
そう言って笑った美緒に、一瞬だけ動きが止まりそうになる。
けれど次の瞬間には、小さく笑っていた。
「ああ、ただいま」
その言葉が、思っていたより自然に口から出た。

コメント