156話「自然なただいま」

朝の冷たい空気が、ドアの隙間からゆっくり入り込んでくる。

「寒そう……」

後ろから、美緒の小さな声。

靴を履きながら「今日は冷えてるな」と返すと、美緒が少しだけ笑った。

「夜はもっと寒くなるよ」

「ああ、だろうな」

そんな何気ない会話をしながら、ドアに手をかける。

「……いってらっしゃい」

自然に落ちてきたその言葉に、一瞬だけ動きが止まる。

クリスマスの頃から、美緒は部屋を出る時そう言うようになった。

今は、その言葉を聞くことが当たり前みたいになっている。

振り返ると、美緒はいつもの柔らかい顔でこちらを見ていた。

「ああ……行ってくる」

そう返して部屋を出る。

けれど、エレベーターを待つ間も、さっきの声が妙に耳に残っていた。

エレベーターを降りると、外の空気は思っていた以上に冷たかった。

吐いた息が白く広がって、ようやく年末の空気を実感する。

さっきまでいた部屋の温度が、まだ身体のどこかに残っていた。

車に乗りエンジンをかける。

けれど頭の中には、最後に聞いた声がまだ残っていた。

——行ってらっしゃい。

ただそれだけの言葉。

なのに、不思議なくらい耳に残る。

以前の美緒なら、きっとそんなことは言わなかった。

必要以上に踏み込まず、近づきすぎず。

どこか一歩引いた距離を保っていた。

けれどクリスマスを過ぎた頃から、少しずつ変わり始めていた。

そして、自分もまた、その言葉をこんなに意識することはなかった気がする。

昨夜と今朝で、その距離はさらに変わった気がしていた。

時計を見ると、まだ昼前だった。

茉莉花に戻れば、すぐに現実の空気に引き戻される。

年末は店も慌ただしい。

考えることはいくらでもある。

それでも、ふと口元が緩みそうになる。

さっきまでの静かな時間が、まだ身体の奥に残っていた。

茉莉花に戻ると、事務所の中はすでに慌ただしく動いていた。

電話の音。

里奈ちゃんや綾さんの声。

そのまま二階の部屋に行こうと階段を上りかけた時、リビングのドアが開いた。

「おかえり」

最初に気付いたのは早苗だった。

「ただいま」と返しながら階段を上がると、早苗も後ろをついてくる。

部屋に入りコートを脱いでいると、早苗がそれを受け取りながら、ちらりとこちらを見る。

「なんか今日、いつもと違うよね」

「そうか?」

「うん。なんか機嫌良さそう」

その言葉に、思わず苦笑が漏れる。

「気のせいだろ」

「ふーん?」

完全には納得していない顔。

けれど早苗はそれ以上深く聞かず、机の書類を軽く叩いた。

テーブルに広げられた予定表。

「それより年末と年始なんだけど、出勤したいって子何人かいるんだよね」

女の子たちのスケジュール表を手に取る。

大晦日と元旦にも、何人かの名前が書き込まれていた。

「これじゃ、早苗も今年は正月休みないなぁ」

「うん。里奈と綾さんも事務所で年越しになりそう」

仕事の話に切り替わると、頭の中も自然と現実へ戻っていく。

里奈ちゃんは撮影関係の調整で動いているが、ホテルも混雑してるらしく、撮影は年明けになるらしい。

綾さんも年末年始の出勤調整でバタついているみたいだった。

「弘君から連絡あって、年末年始は予約入ってるらしいから、出勤する子が決まったらメールしなきゃなんだよね」

早苗はスケジュール表を見ながら、携帯を手に少し考え込むように言う。

この時期は、誰もが少し慌ただしい。

それでも時折、不意に朝の空気が頭をよぎる。

コーヒーの香り。

肩に触れた温もり。

「昨日より、近いね」

あの小さな声。

書類を見ながら、小さく息を吐く。

「どうしたの?」

早苗が顔を上げる。

「いや、なんでもない」

そう返しながら、視線を予定表へ戻した。

気付けば、外は少しずつ夕方の色に変わっていた。

年末の空は暗くなるのが早い。

事務所の窓の外にも、街の灯りが少しずつ増え始めている。

「じゃあ、私はこっち確認しとくね」

早苗が書類をまとめながら言う。

「ああ、頼む」

軽く返し、ソファーから立ち上がる。

そのままコートに手を伸ばすと、早苗がこちらを見る。

「もう出るの?」

「ああ。ちょっと月下美人に行ってくる。ほら、今日は弘が忘年会するって言ってただろ」

窓の外を見ながら言った。

「あっ、そうか。忘年会、何時からだっけ?」

「店が落ち着いてからだろうな」

「あなたは飲まないから飲み過ぎはないけど、気を付けてね」

「ああ」

短く返し、事務所を出る。

外に出ると、空気は朝よりさらに冷えていた。

白い息を吐きながら車に乗り込む。

向かう先を考えるより先に、足は自然と美緒のマンションへ向かっていた。

それを不自然だとは、もう思わなくなっていた。

マンションのインターホンを押すと、少しして扉が開く。

「おかえり」

そう言って笑った美緒に、一瞬だけ動きが止まりそうになる。

けれど次の瞬間には、小さく笑っていた。

「ああ、ただいま」

その言葉が、思っていたより自然に口から出た。

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