目を覚ますと、まだ柔らかい温もりの中にいた。
視界の端に見えるのは、見慣れたはずの天井。
少しだけ顔を動かすと、美緒がこちらを見下ろしていた。
「起きた?」
その声は、昨夜と同じ温度だった。
「ああ……」
まだ少しだけぼやけたまま返すと、指先が髪に触れる。
ゆっくりと撫でるその仕草に、昨夜の感覚がそのまま蘇る。
「よく寝てたよ」
小さく笑いながら言うその言葉に、なぜか何も言い返せなかった。
ただ、美緒の温もりだけをはっきりと感じていた。
「……何時だ?」
少し遅れて、そんな言葉が出る。
「まだ大丈夫。時間あるよ」
そう言いながら、美緒は手を止めない。
髪をなぞる指先が、一定のリズムでゆっくりと動いていく。
急かす気配はまったくなくて、ただ“ここにいればいい”とでも言われているみたいだった。
「コーヒー、飲む?」
ふと、そんな言葉が落ちてくる。
「ああ……飲みたいな」
短く答えると、「じゃあ後でね」と軽く返ってくる。
それだけのやり取りなのに、不思議と間が心地いい。
会話が途切れても、何も困らない。
沈黙が、ただそのまま続いていく。
洗面所に行き、冷たい水で顔を洗う。
顔を上げると、鏡に映る顔はいつもと変わらない。
でも身体だけは、まだ美緒の柔らかな温もりの中にいるようだった。
もう一度、冷たい水で顔を流した。
戻ると、部屋にはコーヒーの香りが広がっていた。
「早いな」
「そうかな」
キッチンの方から、軽い声が返ってくる。
カウンターの上には、もう二つカップが並んでいた。
昨日のことを思い出し、少しだけ足が止まる。
「どうしたの?」
振り返った美緒が、不思議そうに首を傾げる。
「いや……なんでもない」
そう答えながら席に着くと、ちょうどいい温度のカップが手元に置かれた。
「はい」
「ああ、ありがとう」
指先が少しだけ触れる。
それだけのことなのに、昨夜の続きみたいに感じてしまう。
一口飲むと、少しだけ苦みが広がった。
「うまいな」
「でしょ」
どこか満足そうな声。
そのまま、しばらくは静かな時間が続く。
言葉はほとんどないのに、不思議と間が持つ。
むしろ、何も話さない方が落ち着いていた。
「ねえ」
カップを置いたタイミングで、美緒がこちらを見る。
「ん?」
「今日、まだ時間ある?」
その問いに、一瞬だけ考える。
けど、答えはほとんど決まっていた。
「ああ、大丈夫だな」
そう言うと、美緒は少しだけ笑う。
「じゃあ、もう少しゆっくりしよっか」
その言い方が、あまりにも自然で。
断る理由なんて、最初からなかった。
ソファに移ると、隣に座った美緒が、何も言わずに少しだけ距離を詰めてくる。
肩が触れるか触れないか、そのくらい。
けれど、離れる気配はない。
「……寒い?」
軽く聞くと、小さく首を振る。
「ううん」
短く返してから、少しだけ間があって。
そのまま、そっと身体を預けてきた。
昨日と同じようで、少しだけ違う距離。
自然に手を伸ばして、その肩を引き寄せる。
抵抗はなかった。
むしろ、そのまま収まるみたいに、力が抜けていく。
「ね」
小さく呼ばれる。
「ん?」
「こういうの、嫌じゃない?」
その言葉に、少しだけ考える。
「……嫌じゃないな」
正直にそう言うと、肩に触れていた力がほんの少しだけ緩む。
「そっか」
それだけ言って、また静かになる。
けれどさっきよりも、距離は近いままだった。
しばらく、そのままの体勢で時間が流れる。
外の光は少しずつ強くなっているのに、部屋の中はまだ柔らかいままだった。
肩に触れる重さも、呼吸のリズムも、さっきよりずっと自然に感じる。
「ね」
また小さく呼ばれる。
「ん?」
「こっち向いて」
言われるままに、少しだけ身体の向きを変える。
距離が、思っていたより近い。
目が合う。
そのまま、どちらも何も言わない。
ほんのわずかな沈黙。
でも、不思議と気まずさはなかった。
むしろ、その間にあるものの方が、はっきりしている。
「……昨日より、近いね」
ふっと、美緒が小さく笑う。
「……そうかもな」
短く返す声が、少しだけ低くなる。
そのやり取りのあと、また少しだけ間が落ちる。
目を逸らす理由も、離れる理由も見つからない。
美緒の指先が、そっと頬に触れる。
ほんの軽い感触。
それだけで、意識が一気に引き戻される。
「嫌なら……やめるよ」
静かな声。
でも、その手はまだ離れていない。
ほんの一瞬だけ考えてから、小さく首を振る。
「……いや」
それ以上の言葉は出なかった。
その返事を聞いたあと、美緒は少しだけ距離を詰める。
触れるか触れないかの距離で、一度止まる。
呼吸が、近い。
美緒の髪が頬に触れて、甘い匂いが微かに残る。
そのまま、ほんの少しだけ触れる。
重ねるというより、確かめるみたいな、軽いキスだった。
すぐに離れる。
何もなかったみたいに、ほんの少しだけ距離が戻る。
けれど、さっきまでとは明らかに違っていた。
窓の外は、もう完全に朝になっている。
それでもこの部屋だけ、時間の流れが少し違っているみたいだった。
昨夜から続いていたもの。
はっきりと言葉にすることはできないけれど。
もう、元の距離には戻らない。
そんな感覚だけが、静かに残っていた。

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