155話「昨日より近く」

目を覚ますと、まだ柔らかい温もりの中にいた。

視界の端に見えるのは、見慣れたはずの天井。

少しだけ顔を動かすと、美緒がこちらを見下ろしていた。

「起きた?」

その声は、昨夜と同じ温度だった。

「ああ……」

まだ少しだけぼやけたまま返すと、指先が髪に触れる。

ゆっくりと撫でるその仕草に、昨夜の感覚がそのまま蘇る。

「よく寝てたよ」

小さく笑いながら言うその言葉に、なぜか何も言い返せなかった。

ただ、美緒の温もりだけをはっきりと感じていた。

「……何時だ?」

少し遅れて、そんな言葉が出る。

「まだ大丈夫。時間あるよ」

そう言いながら、美緒は手を止めない。

髪をなぞる指先が、一定のリズムでゆっくりと動いていく。

急かす気配はまったくなくて、ただ“ここにいればいい”とでも言われているみたいだった。

「コーヒー、飲む?」

ふと、そんな言葉が落ちてくる。

「ああ……飲みたいな」

短く答えると、「じゃあ後でね」と軽く返ってくる。

それだけのやり取りなのに、不思議と間が心地いい。

会話が途切れても、何も困らない。

沈黙が、ただそのまま続いていく。

洗面所に行き、冷たい水で顔を洗う。

顔を上げると、鏡に映る顔はいつもと変わらない。

でも身体だけは、まだ美緒の柔らかな温もりの中にいるようだった。

もう一度、冷たい水で顔を流した。

戻ると、部屋にはコーヒーの香りが広がっていた。

「早いな」

「そうかな」

キッチンの方から、軽い声が返ってくる。

カウンターの上には、もう二つカップが並んでいた。

昨日のことを思い出し、少しだけ足が止まる。

「どうしたの?」

振り返った美緒が、不思議そうに首を傾げる。

「いや……なんでもない」

そう答えながら席に着くと、ちょうどいい温度のカップが手元に置かれた。

「はい」

「ああ、ありがとう」

指先が少しだけ触れる。

それだけのことなのに、昨夜の続きみたいに感じてしまう。

一口飲むと、少しだけ苦みが広がった。

「うまいな」

「でしょ」

どこか満足そうな声。

そのまま、しばらくは静かな時間が続く。

言葉はほとんどないのに、不思議と間が持つ。

むしろ、何も話さない方が落ち着いていた。

「ねえ」

カップを置いたタイミングで、美緒がこちらを見る。

「ん?」

「今日、まだ時間ある?」

その問いに、一瞬だけ考える。

けど、答えはほとんど決まっていた。

「ああ、大丈夫だな」

そう言うと、美緒は少しだけ笑う。

「じゃあ、もう少しゆっくりしよっか」

その言い方が、あまりにも自然で。

断る理由なんて、最初からなかった。

ソファに移ると、隣に座った美緒が、何も言わずに少しだけ距離を詰めてくる。

肩が触れるか触れないか、そのくらい。

けれど、離れる気配はない。

「……寒い?」

軽く聞くと、小さく首を振る。

「ううん」

短く返してから、少しだけ間があって。

そのまま、そっと身体を預けてきた。

昨日と同じようで、少しだけ違う距離。

自然に手を伸ばして、その肩を引き寄せる。

抵抗はなかった。

むしろ、そのまま収まるみたいに、力が抜けていく。

「ね」

小さく呼ばれる。

「ん?」

「こういうの、嫌じゃない?」

その言葉に、少しだけ考える。

「……嫌じゃないな」

正直にそう言うと、肩に触れていた力がほんの少しだけ緩む。

「そっか」

それだけ言って、また静かになる。

けれどさっきよりも、距離は近いままだった。

しばらく、そのままの体勢で時間が流れる。

外の光は少しずつ強くなっているのに、部屋の中はまだ柔らかいままだった。

肩に触れる重さも、呼吸のリズムも、さっきよりずっと自然に感じる。

「ね」

また小さく呼ばれる。

「ん?」

「こっち向いて」

言われるままに、少しだけ身体の向きを変える。

距離が、思っていたより近い。

目が合う。

そのまま、どちらも何も言わない。

ほんのわずかな沈黙。

でも、不思議と気まずさはなかった。

むしろ、その間にあるものの方が、はっきりしている。

「……昨日より、近いね」

ふっと、美緒が小さく笑う。

「……そうかもな」

短く返す声が、少しだけ低くなる。

そのやり取りのあと、また少しだけ間が落ちる。

目を逸らす理由も、離れる理由も見つからない。

美緒の指先が、そっと頬に触れる。

ほんの軽い感触。

それだけで、意識が一気に引き戻される。

「嫌なら……やめるよ」

静かな声。

でも、その手はまだ離れていない。

ほんの一瞬だけ考えてから、小さく首を振る。

「……いや」

それ以上の言葉は出なかった。

その返事を聞いたあと、美緒は少しだけ距離を詰める。

触れるか触れないかの距離で、一度止まる。

呼吸が、近い。

美緒の髪が頬に触れて、甘い匂いが微かに残る。

そのまま、ほんの少しだけ触れる。

重ねるというより、確かめるみたいな、軽いキスだった。

すぐに離れる。

何もなかったみたいに、ほんの少しだけ距離が戻る。

けれど、さっきまでとは明らかに違っていた。

窓の外は、もう完全に朝になっている。

それでもこの部屋だけ、時間の流れが少し違っているみたいだった。

昨夜から続いていたもの。

はっきりと言葉にすることはできないけれど。

もう、元の距離には戻らない。

そんな感覚だけが、静かに残っていた。

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