「おはよう、そろそろ起きようか」
耳元で聞こえる美緒の柔らかい声で目が覚めた。
体を起こすと、美緒はそっと髪を撫で整える。
ベッドに座ったままぼんやりしていると、
「コーヒー淹れてるよ」
「ああ、ありがとう」
美緒に手を引かれベッドを出て、リビングのソファーに腰を下ろす。
テーブルの上にある携帯を手に取ると、高梨社長からメールの返信が入っていた。
『お疲れ様です。
フィリピン人と日本人向けの件は了解しました。
水曜の午後一時に“時のかけら”でどうですか?』
私は、お願いしますとの旨を返信した。
携帯をテーブルに置くと、美緒は隣に座り、カップを手渡しながら聞く。
「今日の予定は?」
「うん、届出制の受付も近づいてきているだろ。花水木へ変わる準備も進めないとな」
「準備って?」
「まず弘と大介の見た目も変えなきゃならないから、スーツとジャケットを買いに行こうと思ってる」
私はコーヒーを一口飲んでから続けた。
「届出したら建前上は表になるだろ。だから人と接することも多くなる。明るくクリーンなイメージにしないとな」
美緒は話が終わるタイミングで言った。
「うん。特に女の子にとっては面接に行くだけでもかなり決心がいるもんね。やっぱり最初に好印象を持たれるのは大きいよ」
私は少し間を空けて言った。
「なるほど。それじゃ美緒に選んでもらった方がいいかもな。一緒に行くか?」
「うん! 私が選んであげる」
美緒は嬉しそうに笑った。
私は弘に連絡を入れ、駅前の駐車場で待ち合わせることにした。
私たちが駐車場に着くと、弘は車から降りて駆け寄って来た。
「兄貴! お疲れっす。何かあったんすか? あっ、美緒ちゃんも一緒だったんだ」
「とりあえず車に乗れよ」
弘が後部座席に乗り込む。
「もうすぐ届出制が始まる。月下美人から花水木に変わるだろ」
「はい」
弘が頷く。
「それを機に、店のイメージも変えていこうと思う」
私はそう言いながら弘を見る。
「お前と大介、これからジャケットかスーツを着るようにしろ」
「えっ?」
弘は少し驚いた顔をした。
「ジャケットっすか?」
「ああ。今までみたいな感じより、もう少しクリーンなイメージにしたいんだ」
私は静かに続ける。
「届出制が始まったら、人と接することも増えるからな」
弘は困ったように頭を掻いた。
「俺、ジャケットとか持ってないっすよ」
その言葉に、私と美緒は少し笑う。
「じゃあ、今から買いに行くか」
「今からですか?」
「ああ」
「弘さんに似合うのを一緒に探しましょう!」
美緒が振り向いて弘に言う。
私たちは弘を連れて洋服屋へ向かった。
店へ入ると、弘は落ち着かない様子で辺りを見回している。
「なんか緊張するっすね……」
「洋服屋に来たぐらいで緊張するなよ」
私は笑いながらラックに並ぶジャケットを見ていく。
黒。
グレー。
ネイビー。
今までの二人なら選ばなかったような服ばかりだった。
「弘さん、これなんか似合いそう」
「えぇ……似合うかなぁ」
「試着してみてください」
弘は少し恥ずかしそうな顔をしながら試着室へ入っていく。
しばらくして出てくると、思っていた以上に自然だった。
「……どうっすか?」
「すごく似合ってますよ!」
美緒が少し目を見開いて言う。
「なんか、自分じゃないみたいっす」
私はその姿を見ながら小さく頷いた。
「これからは見た目も大事だからな」
その後、靴やシャツなど大介の分も選び、店を出る。
店を出て車に乗ってから、弘に名刺が入った紙袋を渡した。
「これ、花水木になってからの名刺だ。大介と美咲、それに女の子用のも入ってる」
「わぁ、これ格好いいっす! なんか、いよいよ始まるって感じっすね!」
弘は自分の名刺を見ながら言った。
外はもう夕方の空気へ変わり始めていた。
私たちは弘と別れ、美緒のマンションに戻った。
「コーヒー淹れるね」
美緒はそう言いながらキッチンへ向かう。
私はストーブに火を付け、ソファーにもたれながら、少しずつ火が大きくなり色を変えていく様子をぼんやりと眺めていた。
やがてコーヒーの良い香りが部屋に漂ってくる。
美緒がカップをテーブルに置き、隣へ座った。
色んなものが変わり始めている。
店も。
仕事も。
人も。
でも、美緒だけは変わらなかった。
美緒が私の肩に顔を寄せる。
「疲れた?」
「ちょっとだけな」
私はそっと美緒の肩を引き寄せた。
美緒は抵抗することなく、静かに身体を預けてくる。
部屋の中には、柔らかな沈黙だけが流れていた。
私はそっと美緒の頬へ触れる。
美緒は安心したように目を閉じ、そのまま静かに唇を重ねてきた。
柔らかな温もりが、ゆっくりと身体へ広がっていく。
私はそのまま美緒を抱き寄せた。
美緒は小さく微笑みながら胸元へ顔を埋める。
ストーブの火だけが静かに揺れていた。

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