168話「時のかけら」

朝、目が覚めるともう隣に美緒はいなかった。

昨日の夜のまま、部屋の空気がまだ少しだけ残っている気がする。

ベッドを出てリビングに行く。

美緒はキッチンでいつものようにコーヒーを淹れていた。

「もう起きてたのか?」

後ろから声をかける。

「あっ、おはよう。

今コーヒー淹れてるからね」

豆を挽きながら振り返り、微笑んだ。

私はリビングのソファーに腰を下ろす。

テーブルの上には、開いたままのノートパソコンがあった。

何気なく画面を覗くと、英語の文章が並んでいる。

「昨日の話、ちょっと形にしてみたの」

美緒はそう言って、手に持っていたカップをテーブルに置き、隣に座った。

「早いな」

そう言うと、美緒は少しだけ肩をすくめた。

「寝る前にちょっとね。こういうの、考え出すと止まらないから」

そう言って、カップを私に手渡す。

「まだ途中だけど、これで伝わると思う」

画面を見ながら、私はゆっくりと頷いた。

昨日の“話”が、もう“文章”になっている。

昨日、美緒が言っていた“英語で形にする”という言葉が、もうそこにあった。

そこに、美緒がいる意味が少しずつはっきりしていく。

「これ、リトにも見せるのか?」

そう聞くと、美緒は少しだけ間を置いた。

「うん。でも、その前にもう一回ちゃんと整えたい」

キーボードに指を置く美緒の横顔は、昨日より少しだけ仕事の顔だった。

私はそのあと、美緒に書類の調整を任せることにした。

昼前、私は茉莉花へ戻った。

いつもの空気。

いつもの顔。

早苗に、リトの話を軽く切り出す。

「ちょっとリトと仕事始めることになってさ」

早苗は興味ありそうに顔を上げる。

「えっ、もう始めるの?」

私はアクセサリーの販売とそのやり方や、タレントの話などを早苗に話した。

私は少しだけ“仕事”という名前を使った調整を入れる。

「タレントの仕事が終わるのが夜遅いからさ、どうしても朝方までかかる感じになると思う」

本当のところとは少し違う。

でも、全くの嘘ではないが、事実でもなかった。

早苗は納得したようだったが、少し心配そうに言った。

「それじゃ、大変だね。あまり無理しないでよ」

その言葉で、少しだけ胸の奥が軽くなった。

しかし、早苗の目を真っ直ぐに見れずに「うん」とだけ応えた。

夕方、高梨社長からメールが入る。

『明けまして、おめでとうございます。

早速ですが、明日の午後一時頃“時のかけら”というアンティークとリサイクルのお店で会いませんか?』

メールには店の場所も書かれていた。

アンティークとリサイクルが並ぶ店。

時のかけら。

名前だけで高梨さんっぽいなと思った。

夜、美緒のマンションに戻ると、部屋の灯りは柔らかかった。

「おかえり」

その声と一緒に、美緒はテーブルにノートパソコンを置く。

「できたよ」

画面には、整えられた契約書。

英語の文章が、きちんと“仕事”になっていた。

昨日の会話が、もうここまで来ている。

美緒は静かに言った。

「これなら、ちゃんと伝わると思う」

私は画面から視線を外し、隣にいる美緒を見た。

もう、美緒なしでは進まないところまで来ている気がした。

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