159話「優しい人なら」

MAHALを出る頃には、外の空気がさっきよりもずっと冷たく感じた。

年末の街はまだ騒がしい。

酔った声。

流れるタクシー。

ネオンに照らされた人混み。

その中で、弘は完全に出来上がっていた。

「いや〜……マジで年末最高っす……」

「お前それ今日何回目だよ」

大介が苦笑しながら肩を支える。

「弘さん、ちゃんと立ってくださいって」

美咲まで笑っていた。

「兄貴〜、俺もう無理っす……」

「最初から飛ばしすぎなんだよ」

そう言うと、弘はふにゃっと笑う。

「でもMAHAL最高だったなぁ……メイかわいかった……」

「はいはい」

大介がタクシーを止めながら呆れたように笑った。

「自分たち先帰りますね」

「悪いな」

「全然です。弘さんのことは任せてください」

美咲も軽く頭を下げる。

「美緒ちゃん、またね」

「うん、お疲れさま」

タクシーのドアが閉まり、弘の騒がしい声が少しずつ遠ざかっていく。

その瞬間、不思議なくらい周囲が静かになった。

隣では、美緒が白い息を吐きながらマフラーを押さえている。

そして、その少し前にリトが立っていた。

「リト、行こうか」

「ハイ」

リトには店が終わって静かな場所で話そうと言ってあった。

「すぐ近くに静かな店あるから」

「いいですネ」

リトがニコッと笑う。

その店は駅裏にある小さな居酒屋だった。

MAHALの熱気とは正反対だった。

薄暗い照明。

半分仕切られた個室。

静かに流れる音楽。

さっきまで耳に残っていた派手なダンスミュージックが嘘みたいだった。

席へ座り、とりあえずビールとジントニックを頼む。

「ナオト、さっきの話気になる?」

「あぁ、ちょっとね」

そう答えると、リトは苦笑した。

「あのアクセサリー売る人、前から来てるヨ」

「結構売れてるのか?」

「ウン。でもほとんどは、日本に住んでるアルバイトの人だヨ」

リトはそう言って、グラスをゆっくり回した。

「タレントはキャッシュじゃあまり買えないヨ」

「そんなに欲しがるもんなのか」

「フィリピン帰る時とかネ。家族にプレゼントする人多いヨ」

その言葉に、少しだけ引っかかる。

「家族に?」

「ウン。ネックレスとかリングとか。お父さんとかお母さんに日本で頑張ってるって見せたいネ」

個室の外から、店員の笑い声が微かに聞こえる。

その横で、美緒が静かに口を開いた。

「……なんか分かる気がする」

リトが頷く。

「フィリピン、家族すごく大事ヨ」

グラスの氷が小さく鳴る。

その瞬間、頭の奥に一人の顔が浮かんだ。

高梨トレーディングの、高梨社長だった。

高梨社長の顔を思い浮かべながら、グラスへゆっくり口をつける。

貴金属。

時計。

ローン。

頭の中で、点が少しずつ繋がり始めていた。

「そのアクセサリーって、結構高いのか?」

そう聞くと、リトが少し困ったように笑う。

「高いヨ。あのオバサンはディスカウントない。

みんな文句言ってるヨ」

「どれくらい?」

「普通の店と同じか、もっと高いよ。フィリピン人だから分からないと思ってるヨ」

「現金だけ?」

「ウン」

思わず小さく息が漏れる。

現金一括。

「タレントって、稼げるの?」

横で美緒が静かに聞いた。

リトは肩をすくめる。

「店によるヨ。でもそんな簡単じゃないネ。

MAHALグループは安いヨ。

ファーストタイム、初めて日本に来たタレントの給料いくらと思いますか?」

リトは少し真面目な顔で美緒を見る。

「うーん、どうかな……二十万円くらい?」

「いやあ、MAHALでファーストタイムのタレントは一ヶ月五万円くらいですヨ」

リトが苦笑する。

「えっ、五万円?」

美緒は驚いた顔で言った。

「ウン、それに指名、ドリンク、同伴、アフターのバックがもらえるヨ」

「基本が五万円で、あとは歩合なのか?」

「ウン。お客さん来ないとあんまりお金ないヨ」

「保証は?」

「保証とかないヨ。毎日のご飯のお金は店から少し出る。でも寮代とか少し引かれるネ」

その言葉に、頭の中でさらに計算が動く。

寮。

送金。

生活費。

その中で、アクセサリーを現金で売る。

普通なら無理が出る。

けれど——。

「それでも欲しいんだな」

俺がそう言うと、リトはすぐ頷いた。

「欲しいヨ」

その答えに迷いはなかった。

「フィリピン帰る時、日本で頑張ったって見せたいネ」

リトは少し笑いながら続ける。

「あと、日本人のお客さんもプレゼントするヨ。時計とかアクセサリーとかネ」

「なるほどな……」

美緒が静かにこちらを見る。

たぶん気づいている。

俺の頭が、もう別の方向へ回り始めていることに。

「直人さん」

「ん?」

「なんか、もう仕事の顔になってる」

そう言われて思わず笑う。

「顔に出てたか」

「うん。ちょっとだけ」

リトは何のことか分からないまま、不思議そうに笑っていた。

その横で、俺はグラスの氷をゆっくり揺らす。

高梨社長なら、商品はすぐ用意できる。

問題は売り方だ。

押し売りみたいなことをする気はない。

この世界は、一度信用が出来ると驚くほど早い。

でも——信用を作れれば、多分回る。

口コミは早そうだ。

特にこういうコミュニティは、一気に広がる。

「ナオト?」

リトが首を傾げる。

「もしさ」

気づけば、自然と口が動いていた。

「ちゃんとした売り方する人いたら、みんな買いたいと思う?」

リトは一瞬きょとんとしてから、すぐ真顔になった。

「……優しい人なら買うヨ」

「優しい?」

「ウン。ちゃんとハートある人だヨ」

リトはゆっくり続ける。

「フィリピン人、バカにする人イヤね。騙す人もイヤ」

その言葉が、妙に頭へ残る。

「でも、信用したらみんな買うヨ」

個室の外では、店員が皿を下げる音がしていた。

年末の夜は、まだ終わっていない。

けれど俺の中では、何かが静かに動き始めていた。

高梨社長。

フィリピン人コミュニティ。

ローン。

口コミ。

頭の中で、バラバラだったものが少しずつ繋がっていく。

その横で、美緒が小さく笑った。

「……また忙しくなりそうだね」

その言葉に、俺も苦笑する。

「まだ何も始まってないよ」

そう答えながらも、自分でも分かっていた。

多分もう——始まっている。

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