MAHALを出る頃には、外の空気がさっきよりもずっと冷たく感じた。
年末の街はまだ騒がしい。
酔った声。
流れるタクシー。
ネオンに照らされた人混み。
その中で、弘は完全に出来上がっていた。
「いや〜……マジで年末最高っす……」
「お前それ今日何回目だよ」
大介が苦笑しながら肩を支える。
「弘さん、ちゃんと立ってくださいって」
美咲まで笑っていた。
「兄貴〜、俺もう無理っす……」
「最初から飛ばしすぎなんだよ」
そう言うと、弘はふにゃっと笑う。
「でもMAHAL最高だったなぁ……メイかわいかった……」
「はいはい」
大介がタクシーを止めながら呆れたように笑った。
「自分たち先帰りますね」
「悪いな」
「全然です。弘さんのことは任せてください」
美咲も軽く頭を下げる。
「美緒ちゃん、またね」
「うん、お疲れさま」
タクシーのドアが閉まり、弘の騒がしい声が少しずつ遠ざかっていく。
その瞬間、不思議なくらい周囲が静かになった。
隣では、美緒が白い息を吐きながらマフラーを押さえている。
そして、その少し前にリトが立っていた。
「リト、行こうか」
「ハイ」
リトには店が終わって静かな場所で話そうと言ってあった。
「すぐ近くに静かな店あるから」
「いいですネ」
リトがニコッと笑う。
その店は駅裏にある小さな居酒屋だった。
MAHALの熱気とは正反対だった。
薄暗い照明。
半分仕切られた個室。
静かに流れる音楽。
さっきまで耳に残っていた派手なダンスミュージックが嘘みたいだった。
席へ座り、とりあえずビールとジントニックを頼む。
「ナオト、さっきの話気になる?」
「あぁ、ちょっとね」
そう答えると、リトは苦笑した。
「あのアクセサリー売る人、前から来てるヨ」
「結構売れてるのか?」
「ウン。でもほとんどは、日本に住んでるアルバイトの人だヨ」
リトはそう言って、グラスをゆっくり回した。
「タレントはキャッシュじゃあまり買えないヨ」
「そんなに欲しがるもんなのか」
「フィリピン帰る時とかネ。家族にプレゼントする人多いヨ」
その言葉に、少しだけ引っかかる。
「家族に?」
「ウン。ネックレスとかリングとか。お父さんとかお母さんに日本で頑張ってるって見せたいネ」
個室の外から、店員の笑い声が微かに聞こえる。
その横で、美緒が静かに口を開いた。
「……なんか分かる気がする」
リトが頷く。
「フィリピン、家族すごく大事ヨ」
グラスの氷が小さく鳴る。
その瞬間、頭の奥に一人の顔が浮かんだ。
高梨トレーディングの、高梨社長だった。
高梨社長の顔を思い浮かべながら、グラスへゆっくり口をつける。
貴金属。
時計。
ローン。
頭の中で、点が少しずつ繋がり始めていた。
「そのアクセサリーって、結構高いのか?」
そう聞くと、リトが少し困ったように笑う。
「高いヨ。あのオバサンはディスカウントない。
みんな文句言ってるヨ」
「どれくらい?」
「普通の店と同じか、もっと高いよ。フィリピン人だから分からないと思ってるヨ」
「現金だけ?」
「ウン」
思わず小さく息が漏れる。
現金一括。
「タレントって、稼げるの?」
横で美緒が静かに聞いた。
リトは肩をすくめる。
「店によるヨ。でもそんな簡単じゃないネ。
MAHALグループは安いヨ。
ファーストタイム、初めて日本に来たタレントの給料いくらと思いますか?」
リトは少し真面目な顔で美緒を見る。
「うーん、どうかな……二十万円くらい?」
「いやあ、MAHALでファーストタイムのタレントは一ヶ月五万円くらいですヨ」
リトが苦笑する。
「えっ、五万円?」
美緒は驚いた顔で言った。
「ウン、それに指名、ドリンク、同伴、アフターのバックがもらえるヨ」
「基本が五万円で、あとは歩合なのか?」
「ウン。お客さん来ないとあんまりお金ないヨ」
「保証は?」
「保証とかないヨ。毎日のご飯のお金は店から少し出る。でも寮代とか少し引かれるネ」
その言葉に、頭の中でさらに計算が動く。
寮。
送金。
生活費。
その中で、アクセサリーを現金で売る。
普通なら無理が出る。
けれど——。
「それでも欲しいんだな」
俺がそう言うと、リトはすぐ頷いた。
「欲しいヨ」
その答えに迷いはなかった。
「フィリピン帰る時、日本で頑張ったって見せたいネ」
リトは少し笑いながら続ける。
「あと、日本人のお客さんもプレゼントするヨ。時計とかアクセサリーとかネ」
「なるほどな……」
美緒が静かにこちらを見る。
たぶん気づいている。
俺の頭が、もう別の方向へ回り始めていることに。
「直人さん」
「ん?」
「なんか、もう仕事の顔になってる」
そう言われて思わず笑う。
「顔に出てたか」
「うん。ちょっとだけ」
リトは何のことか分からないまま、不思議そうに笑っていた。
その横で、俺はグラスの氷をゆっくり揺らす。
高梨社長なら、商品はすぐ用意できる。
問題は売り方だ。
押し売りみたいなことをする気はない。
この世界は、一度信用が出来ると驚くほど早い。
でも——信用を作れれば、多分回る。
口コミは早そうだ。
特にこういうコミュニティは、一気に広がる。
「ナオト?」
リトが首を傾げる。
「もしさ」
気づけば、自然と口が動いていた。
「ちゃんとした売り方する人いたら、みんな買いたいと思う?」
リトは一瞬きょとんとしてから、すぐ真顔になった。
「……優しい人なら買うヨ」
「優しい?」
「ウン。ちゃんとハートある人だヨ」
リトはゆっくり続ける。
「フィリピン人、バカにする人イヤね。騙す人もイヤ」
その言葉が、妙に頭へ残る。
「でも、信用したらみんな買うヨ」
個室の外では、店員が皿を下げる音がしていた。
年末の夜は、まだ終わっていない。
けれど俺の中では、何かが静かに動き始めていた。
高梨社長。
フィリピン人コミュニティ。
ローン。
口コミ。
頭の中で、バラバラだったものが少しずつ繋がっていく。
その横で、美緒が小さく笑った。
「……また忙しくなりそうだね」
その言葉に、俺も苦笑する。
「まだ何も始まってないよ」
そう答えながらも、自分でも分かっていた。
多分もう——始まっている。

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