160話「帰る場所」

居酒屋を出たときは日付も変わり、もう大晦日だった。

年末の街は、夜中でもまだどこか浮ついた空気に包まれていた。

居酒屋を出ると、冷えた夜風の中でリトが小さく肩をすくめる。

「サムイねぇ……」

「風邪引かないよう」

そう言いながらタクシーを止める。

リトは乗り込む直前、不意にこちらを見た。

「ナオト」

「ん?」

「今日、ありがとうネ」

その顔は、店で笑っていた時よりずっと素に近かった。

「また連絡するヨ」

「あぁ、気をつけてね」

タクシーのドアが閉まり、車は夜の街へ消えていく。

そのテールランプを見送りながら、美緒が小さく笑った。

「リト、直人さんのこと結構好きだよね」

「そうか?」

「うん。信用してる感じする」

その言葉に、少しだけさっきの続きを聞いているような気分になる。

“信用したらみんな買うヨ”

リトの言葉が、まだ頭のどこかに残っていた。

「帰ろっか」

美緒が白い息を吐きながら言う。

「あぁ」

マンションへ戻る頃には、もう深夜すぎだった。

部屋へ入ると、いつもの部屋の空気と一緒に柔らかい匂いが広がる。

美緒はコートを脱ぎながら笑った。

「なんか今日、長かったね」

「確かに」

「でも楽しかった」

そう言って、美緒は自然に隣へ座る。

その距離感が、少し前までとはもう違っていた。

「弘の奴だいぶ酔ってたな」

「でも、弘さんすごく楽しそうだったね。

あっ、コーヒー飲むでしょ」

美緒はそう言って立ち上がりキッチンへ向かう。

ソファーに体を預け、さっきのリトとの会話をぼんやりと思い出す。

しばらくすると、いつものコーヒーの良い香りが部屋に広がる。

「はい、コーヒーはいったよ」

美緒がカップをテーブルに置き隣に座る。

「ああ、ありがとう」

「なに考えてたの?」

「ん? いや、リトって何歳ぐらいなのかなって」

「リトは四十二歳なんだって」

そう言ってカップを両手で持ち、口に運ぶ。

「えっ、なんで知ってるんだ?」

思わず体を起こし、座り直す。

「うん、メイたちにフィリピンの家族の話を聞いていたら、リトの話になったから聞いてみたの」

美緒はコーヒーを一口飲んでから続ける。

「それでね、リトはタレントとお店の間に立つみたいなポジションで、タレントからは頼りにされてるみたいだよ」

「なるほどな。それじゃリトはタレントにとって、日本でのお父さんやお兄さんみたいなもんなんだな」

「うん、そうみたいだね」

美緒が肩へ軽く寄りかかってくる。

「……眠い?」

「ちょっとだけ」

そう言いながらも、美緒は離れない。

私はその髪を軽く撫でる。

静かな部屋。

「明日、お節作るんだ」

「朝から? 大変だな」

「うん、美咲ちゃん達にも持っていく約束したし」

「美咲と?」

「うん。忘年会の時にね」

その言い方が、妙に美緒らしかった。

「……今年も明日で終わりだね」

美緒が小さな声で言う。

「あぁ」

「直人さん、今年どうだった?」

少し考えてから笑う。

「色々ありすぎたな」

「ふふっ、確かに」

美緒も笑った。

そのあと、少しだけ静かな時間が流れる。

言葉は多くなかった。

でも、その沈黙は不思議と心地よかった。

翌朝、美緒は朝からキッチンへ立っていた。

部屋には出汁の匂いが広がっている。

黒豆。

数の子。

煮物。

テーブルには少しずつ正月の色が並び始めていた。

「手伝おうか?」

「いいよ。直人さん危なっかしいから」

「ひどい言い方だな」

「事実です」

美緒は笑いながら昆布を切っている。

その横顔を見ながら、俺は高梨社長へ短くメールを送った。

『この間はお世話になりました。正月明け、お時間いただけますか?』

送信して数分後。

すぐに返信が返ってくる。

『こちらこそです。それでは、年明けに連絡させていただきます。

良いお年をお迎えください。』

やっぱり動きは早い。

昼前、私は茉莉花に戻った。

玄関を開けた瞬間、賑やかな声が聞こえる。

「おかえりー!」

里奈ちゃんだった。

リビングでは、早苗と綾さん、それに女の子達まで集まって料理をしている。

「すごい人数だな」

「大晦日だからねー!」

里奈が楽しそうに笑う。

テーブルの上には、お節料理や鍋の材料が並んでいた。

茉莉花も月下美人も営業している。

予定のない子は出勤する女の子達も多い。

その合間にみんなで年を越すらしかった。

「あとね!」

里奈ちゃんが包丁を持ったまま振り返る。

「夜みんなで初詣行こうって話してるの!」

「初詣?」

「うん! 綾さんも行くって!」

綾は少し照れたように笑った。

その横で、早苗だけが少し静かだった。

「あなたの予定は?」

その言葉に、一瞬だけ空気が止まる。

私は軽く肩をすくめた。

「月下美人も営業してるからな。夜はちょっと顔出しに行かないとな」

そう答えると、早苗は少しがっかりしたような顔で小さく笑った。

「そっか。でも顔出すのは遅い時間よね」

その声は、いつも通り優しかった。

「あぁ」

そう返しながら、俺はどこへ向かうのかもう分かっていた。

多分今夜も——美緒のマンションへ戻る。

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