目が覚めると、隣に美緒の姿はなかった。
カーテンの隙間から差し込む朝の光が、部屋の中をぼんやりと照らしている。
耳を澄ますと、キッチンの方から小さな物音が聞こえた。
身体を起こし、そのままリビングへ向かう。
美緒は背を向けたまま、静かにコーヒーを淹れていた。
「おはよう」
「あっ、おはよう」
美緒は振り返り、はにかんだような笑顔で言った。
私がソファーに腰を下ろすと、美緒がマグカップを持ってリビングに入ってきた。
テーブルにコーヒーを置き、フロアクッションに座ろうとする美緒に、
「美緒、ここに座れよ」
そう言って隣を軽く叩いた。
「あ、うん。なんか美緒って呼ばれるの照れますね」
そう言いながら、私の隣に座った。
私は本棚の英語の本を思い出し、視線を向けながら言った。
「あれ、勉強してるのか?」
何気なくそう聞くと、
「ううん、少し前まで……」
「今はしてないのか?」
美緒はマグカップを包み込むように持ち、少し目を伏せた。
「私…語学留学するのが目標だったんです…」
そう言ったあと、少しだけ言葉を探すように黙り込んだ。
「でも…違う目標ができたんです。」
ゆっくりと顔を上げる。
「直人さんと仕事すること…それが夢なんです」
まっすぐな目だった。
「それでいいのか?」
私は美緒を見た。
「はい。」
迷いのない声だった。
私は黙って頷いた。
しばらく会話もなく、窓の外から朝の慌ただしい音だけが聞こえてきた。
「お腹空きませんか?昨日の夜から何も食べてないから、お腹すいちゃって」
美緒は明るく、少し照れたように笑いながら言った。
「ああ、そう言えば何も食べてないな。腹減った」
「じゃあ急いで作りますから、待っててくださいね」
そう言うと、美緒はキッチンへ向かった。
私は冷めかけたコーヒーを口に運びながら、美緒の言葉を思い返していた。
今までの決意や想いが嘘だとは思っていない。
だが――
さっきの言葉と、あの目が、妙に引っかかっていた。
このまま、この世界に置いておいていいのか。
理由はうまく言葉にできない。
届出制になるまで、あと数ヶ月ある。
だがそれを待つ必要はない気がした。
奈緒という名前は、もう終わらせるべきだと思った。
「お待たせしましたー。大したものはできなかったんですが」
そう言いながら、美緒がテーブルに皿を並べた。
目玉焼きの乗ったナポリタンだった。
端にはウィンナーが二つ添えられている。
「これ、弘から聞いた?」
私はナポリタンを見てから、美緒に目を向けた。
「はい。直人さんの大好物って言ってました」
少し誇らしげに、美緒は笑った。
「あいつ、おしゃべりだな。でも美味そうだ」
フォークを手に取り、そのまま食べ始める。
夢中になって食べる私を、美緒は嬉しそうに眺めていた。
最後のウィンナーを口に運び、飲み込んでから言った。
「美緒、店を辞めろよ。」
「……えっ?」
一拍遅れて、美緒が顔を上げた。
「でも…届出制はまだ先だし…。お店の出勤スケジュールとか、売上も…」
戸惑いが、そのまま言葉に出ていた。
「店のことは考えなくていいんだ。弘には俺から伝えておく」
少しだけ間を置く。
「届出制に変わるまで、残りたいか?」
「ううん……」
美緒は小さく首を振った。
「すごく嬉しいです…。直人さんがそう言ってくれるなら、私…そうしたいです」
まっすぐに、私を見た。
「それじゃ、今日からは美緒だ」
一度、言葉を切る。
「奈緒とは、昨日でお別れだ」
「……ありがとう」
その瞳には、うっすらと涙が浮かんでいた。

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