マンションの部屋に入ると、ようやく一息つくことができた。
今日はいろいろなことがあった。
取置き商品の販売。
そして予想していなかった新しい出会い。
口コミで少しずつ広がり始めた仕事。
決して大きな出来事ではない。
それでも確かな手応えがあった。
「お疲れさま」
後ろから美緒の声が聞こえる。
振り返ると、美緒が柔らかく微笑んでいた。
「お疲れ」
そう返すと、美緒は私の隣へ腰を下ろした。
ソファに並んで座る。
部屋の中は静かだった。
さっきまでの賑やかな空気が嘘のように感じる。
「嬉しかった?」
美緒が聞いてきた。
「何が?」
「今日のこと」
私は少し考えた。
そして素直に答える。
「嬉しかったな」
美緒が小さく笑う。
「やっぱり」
「分かるのか?」
「分かるよ」
そう言って私の肩にもたれた。
シャンプーの香りがふわりと漂う。
「最初は売れるかどうかも分からなかったのにね」
「そうだな」
「それが口コミで広がってる」
美緒はどこか自分のことのように嬉しそうだった。
「頑張ってきて良かったね」
その言葉に私は思わず笑う。
「まだ始まったばかりだろ」
「うん。でも今日くらいは喜んでいいと思う」
美緒はそう言いながら私の手を握った。
温かかった。
仕事の話をしているはずなのに、不思議と心が落ち着いていく。
しばらく何も話さない時間が続く。
それでも居心地は悪くなかった。
むしろ心地良かった。
美緒がそっと顔を上げる。
目が合った。
「どうした?」
そう聞くと、美緒は少しだけ照れたように笑う。
「直人さん、今日は少し嬉しそうだから」
そう言って私の肩に頭を預けた。
私はその髪を優しく撫でる。
私の指が髪に触れると、美緒は安心したように小さく息を漏らした。
静かな時間だった。
窓の外から聞こえる街の音だけが、かすかに部屋へ届いている。
美緒は私の肩に頭を預けたまま動かない。
「眠いのか?」
そう聞くと、小さく首を振った。
「違う」
「じゃあ何だ?」
「こうしてるのが好き」
少し照れたように言う。
私は思わず笑った。
「そうか」
「うん」
美緒も笑う。
そのまま顔を上げると、私を見つめてきた。
優しい目だった。
仕事の話をしていた時とは違う。
二人だけの時間の顔だった。
「今日ね」
美緒が静かに言う。
「なんか嬉しかった」
「販売のことか?」
「それもあるけど」
少し考えてから続ける。
「直人さんが嬉しそうだったから」
私は苦笑した。
「そんなに分かりやすいか?」
「分かりやすいよ」
美緒はそう言いながら私の腕に抱きつく。
柔らかな温もりが伝わってくる。
「頑張ってるのずっと見てきたから」
その言葉に胸の奥が少し温かくなった。
美緒は私以上に、私のことを見ている時がある。
嬉しい時も。
落ち込んでいる時も。
何も言わなくても気付かれてしまう。
「ありがとう」
自然とそんな言葉が出た。
美緒は少し驚いた顔をしたあと、嬉しそうに笑う。
「どういたしまして」
そう言って、私の肩へもう一度頭を預けた。
私はそっとその肩を抱き寄せる。
美緒は抵抗することなく身を任せてきた。
部屋の中には静かな時間だけが流れていた。
仕事の話も。
将来の話も。
今は何もいらなかった。
こうして隣にいるだけで十分だった。
しばらくすると、美緒がふっと立ち上がる。
「どうした?」
私が聞くと、美緒はいたずらっぽく笑った。
「おいで」
そう言いながら私の腕を引きベッドに行く。
私はその意味に気付き、小さく笑った。
「またか」
「いいから」
美緒がベッドボードにもたれ膝を軽く叩く。
私は素直に横になった。
頭の下に柔らかな感触が伝わる。
見上げると、美緒が優しく微笑んでいた。
「お疲れさま」
その言葉と一緒に髪を撫でられる。
今日一日の疲れが少しずつ溶けていく気がした。
「頑張ったね」
「まだまだだよ」
「それでも頑張った」
美緒はそう言って笑う。
そしていつものようにミミククリン手に取った。
いつもの、ひんやりした感触といい匂い。
今日の出来事がゆっくり頭の中を流れていく。
取引。
新しい出会い。
広がり始めた口コミ。
少しずつ前に進んでいる実感。
そして――
最後に残るのは、美緒の温もりだった。
「眠くなってきた?」
上から優しい声が降ってくる。
「少しな」
そう答えると、美緒がくすりと笑う。
私はその笑い声を聞きながら目を閉じた。
今日という一日は、思っていたよりもずっと良い一日だった。

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