108話「奈緒の終わり」

目が覚めると、隣に美緒の姿はなかった。

カーテンの隙間から差し込む朝の光が、部屋の中をぼんやりと照らしている。

耳を澄ますと、キッチンの方から小さな物音が聞こえた。

身体を起こし、そのままリビングへ向かう。

美緒は背を向けたまま、静かにコーヒーを淹れていた。

「おはよう」

「あっ、おはよう」

美緒は振り返り、はにかんだような笑顔で言った。

私がソファーに腰を下ろすと、美緒がマグカップを持ってリビングに入ってきた。

テーブルにコーヒーを置き、フロアクッションに座ろうとする美緒に、

「美緒、ここに座れよ」

そう言って隣を軽く叩いた。

「あ、うん。なんか美緒って呼ばれるの照れますね」

そう言いながら、私の隣に座った。

私は本棚の英語の本を思い出し、視線を向けながら言った。

「あれ、勉強してるのか?」

何気なくそう聞くと、

「ううん、少し前まで……」

「今はしてないのか?」

美緒はマグカップを包み込むように持ち、少し目を伏せた。

「私…語学留学するのが目標だったんです…」

そう言ったあと、少しだけ言葉を探すように黙り込んだ。

「でも…違う目標ができたんです。」

ゆっくりと顔を上げる。

「直人さんと仕事すること…それが夢なんです」

まっすぐな目だった。

「それでいいのか?」

私は美緒を見た。

「はい。」

迷いのない声だった。

私は黙って頷いた。

しばらく会話もなく、窓の外から朝の慌ただしい音だけが聞こえてきた。

「お腹空きませんか?昨日の夜から何も食べてないから、お腹すいちゃって」

美緒は明るく、少し照れたように笑いながら言った。

「ああ、そう言えば何も食べてないな。腹減った」

「じゃあ急いで作りますから、待っててくださいね」

そう言うと、美緒はキッチンへ向かった。

私は冷めかけたコーヒーを口に運びながら、美緒の言葉を思い返していた。

今までの決意や想いが嘘だとは思っていない。

だが――

さっきの言葉と、あの目が、妙に引っかかっていた。

このまま、この世界に置いておいていいのか。

理由はうまく言葉にできない。

届出制になるまで、あと数ヶ月ある。

だがそれを待つ必要はない気がした。

奈緒という名前は、もう終わらせるべきだと思った。

「お待たせしましたー。大したものはできなかったんですが」

そう言いながら、美緒がテーブルに皿を並べた。

目玉焼きの乗ったナポリタンだった。

端にはウィンナーが二つ添えられている。

「これ、弘から聞いた?」

私はナポリタンを見てから、美緒に目を向けた。

「はい。直人さんの大好物って言ってました」

少し誇らしげに、美緒は笑った。

「あいつ、おしゃべりだな。でも美味そうだ」

フォークを手に取り、そのまま食べ始める。

夢中になって食べる私を、美緒は嬉しそうに眺めていた。

最後のウィンナーを口に運び、飲み込んでから言った。

「美緒、店を辞めろよ。」

「……えっ?」

一拍遅れて、美緒が顔を上げた。

「でも…届出制はまだ先だし…。お店の出勤スケジュールとか、売上も…」

戸惑いが、そのまま言葉に出ていた。

「店のことは考えなくていいんだ。弘には俺から伝えておく」

少しだけ間を置く。

「届出制に変わるまで、残りたいか?」

「ううん……」

美緒は小さく首を振った。

「すごく嬉しいです…。直人さんがそう言ってくれるなら、私…そうしたいです」

まっすぐに、私を見た。

「それじゃ、今日からは美緒だ」

一度、言葉を切る。

「奈緒とは、昨日でお別れだ」

「……ありがとう」

その瞳には、うっすらと涙が浮かんでいた。

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