107話「本当の名前」

奈緒の部屋は、前に来たときと変わらなかった。

けれど、そこにいる奈緒だけが、少し違って見えた。

「コーヒー淹れますね。弘さんからコーヒー好きって聞いたから、美味しそうな豆を買っておいたんです。」

そう言って奈緒はキッチンへ向かった。

部屋を見回すと、余計な物がないシンプルな空間だった。

前に来たときは気づかなかったが、小さな本棚には英語の辞書や、その関連の本が並んでいる。

奈緒がマグカップを二つ持って、私の前に座った。

一人暮らしだからかソファーは一つしかなく、奈緒はフロアクッションに向き合うように腰をおろした。

コーヒーの良い香りがリビングに広がる。

私はマグカップを手に取り、一口飲んだ。

「美味しいですか?」

奈緒は上目遣いで聞いた。

「うん、美味しいよ」

「良かったぁ。奮発して、少し高い豆にしたんです」

奈緒は微笑んで言った。

よく見ると、マグカップはお揃いだった。

私は、月下美人を届出して名義を弘にすること、

その届出を機に店のシステムや経営方針を変え、他店舗との差別化を図ることを話した。

この業界では女性スタッフがほとんどいない。

だから奈緒には、女性にしか出来ない役割を担ってほしい——そう伝えた。

奈緒は何かを噛みしめるように頷きながら聞いていた。

話が一通り終わると、奈緒は言った。

「私、頑張ります。」

迷いのない瞳だった。

私が何気なく時計を見ると、

「今日は、まだ時間大丈夫なんですか?」

奈緒は視線を外しながら聞いた。

「うん、時間は大丈夫だ」

そう返すと、奈緒は「それじゃあ、ちょっと」と言ってクローゼットから紙袋を取り出した。

「ジャケットがシワになるといけないから」

そう言って袋を開け、部屋着をそっと差し出した。

その少し寂しげな表情に、愛おしさがこみ上げる。

気づけば私は、奈緒を強く抱きしめていた。

奈緒は小さく息を漏らし、そのまま身をゆだねた。

目が覚めると、淡い間接照明の光が深夜の部屋を照らしていた。

奈緒が、そっと私の頬を撫でた。

「起きてたのか?」

「はい。ずっと起きてました。寝るのが、もったいなくて……」

そう言うと奈緒は身体を起こし、私の頭を自分の膝に乗せた。

「もう敬語はいいよ。二人のときは普通に喋れよ」

そう言いながら、恵美に同じような言葉を言われたことが頭をよぎった。

「うん。」

奈緒は私の髪に触れながら、小さく返事をした。

「そういえば、本当の名前はなんていうんだ?」

奈緒は少しだけ間を置いて、口を開いた。

「……美緒。白石美緒。」

「そうか。綺麗な名前だな。それじゃあ、今からは美緒だな」

「私は、何て呼べばいい?」

「直人でいいよ」

「分かった……直人……さん」

奈緒——美緒は私の隣に横になり、

私の顔を自分の腕の中へ引き寄せ、優しく包み込んだ。

その温もりの中で、私は静かに眠りに落ちていった。

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