101話「消えない気持ち」

店に向かう車の中で、奈緒はいつもより静かだった。

助手席に座り、窓の外をぼんやりと眺めている。

「どうした?」

そう声をかけると、奈緒は少し遅れてこちらを見た。

「いえ……ちょっと緊張してるだけです」

そう言って、小さく笑った。

その表情は、どこかぎこちなかった。

店に着くまでのあいだ、会話はほとんどなかった。

奈緒は何度か口を開きかけては、何も言わずに視線を外していた。

店に入ると、落ち着いた照明の中で静かな音楽が流れていた。

奈緒が選んだ店だけあって、雰囲気は悪くない。

席に案内され、向かい合って座ると、奈緒は少しだけ肩の力を抜いたようだった。

「こういうお店、ずっと来てみたかったんです」

メニューを開きながら、そう言った。

「あんまり来る機会ないか」

「はい……こういうところって、誰と来るかも大事じゃないですか」

奈緒はそう言って、少しだけ目を伏せた。

それ以上は何も言わなかった。

料理と一緒に酒を頼み、ゆっくりと時間が流れていく。

最初は他愛のない話をしていたが、酒が進むにつれて、奈緒の口数は少しずつ増えていった。

グラスに口をつけたあと、奈緒はしばらく黙り込む。

何かを考えているようだった。

「……あの」

ぽつりと、奈緒が口を開いた。

「私、弘さんから聞いてます」

その言葉で、何の話かはすぐに分かった。

「早苗さんのことも」

奈緒は視線を落としたまま、続ける。

「だから……分かってるんですけど」

一度言葉を切り、小さく息を吐いた。

「それでも、好きって気持ちは……なくならないんですよね」

静かな声だった。

店の中の音に紛れてしまいそうなほど、小さな声だった。

奈緒は顔を上げず、そのままグラスに手を伸ばす。

少しだけ震えているように見えた。

私は何も言わず、その様子を見ていた。

奈緒はグラスを置くと、ゆっくりとこちらを見た。

その目は、どこか覚悟を決めたようにも見えた。

「迷惑なのは、分かってます」

奈緒は小さくそう言った。

「でも……気持ちに嘘つくのも、嫌なんです」

言い終えると、また視線を落とす。

そのまま、何も言わなかった。

店内の音が、やけに遠く感じた。

私はグラスに手を伸ばしかけて、止めた。

何か言おうとして、言葉が出てこない。

奈緒の言葉を否定する理由もなければ、

受け入れる理由を探しているわけでもなかった。

ただ、その場の空気だけが静かに流れていた。

奈緒は顔を上げないまま、ぽつりと呟く。

「……すみません」

その一言に、わずかな諦めが混じっていた。

私は小さく息を吐いた。

「謝る必要はないだろ」

それだけ言うと、奈緒はゆっくりと顔を上げた。

目が合う。

さっきまでとは違う、まっすぐな視線だった。

「帰るか」

そう言うと、奈緒は小さく頷いた。

それ以上、言葉はなかった。

店を出ると、夜の空気は少しだけ冷たかった。

車に乗り込み、エンジンをかける。

来たときと同じ道を走っているはずなのに、車内の空気はまるで違っていた。

奈緒は何も話さなかった。

ただ、窓の外を見ていた。

しばらくして、奈緒のマンションの前に車を止めた。

「今日はありがとうございました」

そう言って、奈緒はドアに手をかける。

一度だけ、こちらを見た。

何かを言いかけて、やめたように見えた。

そのままドアを開け、外に出る。

数歩歩いたところで、足を止めた。

振り返る。

「……部屋、寄っていきますか?」

静かな声だった。

私は少しだけ間を置いた。

そのあと、ドアを開けた。

エレベーターに乗り込むと、奈緒は何も言わなかった。

狭い空間の中で、かすかに酒の匂いが混ざる。

階数が上がるごとに、妙な静けさだけが残っていった。

扉が開き、奈緒の後について部屋へ入る。

「すみません、散らかってて」

そう言いながら、軽く部屋の中を整える。

生活感のある空間だった。

どこか落ち着く匂いがした。

奈緒は一度こちらを見て、何か言おうとしてやめる。

そのまま、ゆっくりと距離を詰めてきた。

言葉はなかった。

ただ、互いの呼吸だけが近くなる。

奈緒の手が、そっと触れた。

そのまま、自然に距離がなくなっていった。

気がつくと、部屋の中は静まり返っていた。

さっきまでの空気が、嘘のように消えている。

奈緒は何も言わず、隣にいた。

私は天井を見上げたまま、しばらく動かなかった。

何かが変わったのは分かっていた。

だが、それが何なのかは、まだはっきりしなかった。

奈緒はゆっくりと体を起こし、ベッドから降りる。

「コーヒー、淹れますね」

いつもと変わらない声だった。

キッチンに立つ背中を見ながら、私は目を閉じた。

部屋を出るとき、奈緒はいつも通りだった。

「今日はありがとうございました」

そう言って、小さく頭を下げる。

それ以上、何も言わなかった。

私も、何も言わなかった。

車に戻り、エンジンをかける。

夜の街は、変わらず静かだった。

さっきまでいた場所だけが、どこか遠く感じる。

信号待ちで止まり、ふと奈緒の言葉を思い返す。

好きという気持ちは、なくならない。

その言葉だけが、やけに残っていた。

コメント