店に向かう車の中で、奈緒はいつもより静かだった。
助手席に座り、窓の外をぼんやりと眺めている。
「どうした?」
そう声をかけると、奈緒は少し遅れてこちらを見た。
「いえ……ちょっと緊張してるだけです」
そう言って、小さく笑った。
その表情は、どこかぎこちなかった。
店に着くまでのあいだ、会話はほとんどなかった。
奈緒は何度か口を開きかけては、何も言わずに視線を外していた。
店に入ると、落ち着いた照明の中で静かな音楽が流れていた。
奈緒が選んだ店だけあって、雰囲気は悪くない。
席に案内され、向かい合って座ると、奈緒は少しだけ肩の力を抜いたようだった。
「こういうお店、ずっと来てみたかったんです」
メニューを開きながら、そう言った。
「あんまり来る機会ないか」
「はい……こういうところって、誰と来るかも大事じゃないですか」
奈緒はそう言って、少しだけ目を伏せた。
それ以上は何も言わなかった。
料理と一緒に酒を頼み、ゆっくりと時間が流れていく。
最初は他愛のない話をしていたが、酒が進むにつれて、奈緒の口数は少しずつ増えていった。
グラスに口をつけたあと、奈緒はしばらく黙り込む。
何かを考えているようだった。
「……あの」
ぽつりと、奈緒が口を開いた。
「私、弘さんから聞いてます」
その言葉で、何の話かはすぐに分かった。
「早苗さんのことも」
奈緒は視線を落としたまま、続ける。
「だから……分かってるんですけど」
一度言葉を切り、小さく息を吐いた。
「それでも、好きって気持ちは……なくならないんですよね」
静かな声だった。
店の中の音に紛れてしまいそうなほど、小さな声だった。
奈緒は顔を上げず、そのままグラスに手を伸ばす。
少しだけ震えているように見えた。
私は何も言わず、その様子を見ていた。
奈緒はグラスを置くと、ゆっくりとこちらを見た。
その目は、どこか覚悟を決めたようにも見えた。
「迷惑なのは、分かってます」
奈緒は小さくそう言った。
「でも……気持ちに嘘つくのも、嫌なんです」
言い終えると、また視線を落とす。
そのまま、何も言わなかった。
店内の音が、やけに遠く感じた。
私はグラスに手を伸ばしかけて、止めた。
何か言おうとして、言葉が出てこない。
奈緒の言葉を否定する理由もなければ、
受け入れる理由を探しているわけでもなかった。
ただ、その場の空気だけが静かに流れていた。
奈緒は顔を上げないまま、ぽつりと呟く。
「……すみません」
その一言に、わずかな諦めが混じっていた。
私は小さく息を吐いた。
「謝る必要はないだろ」
それだけ言うと、奈緒はゆっくりと顔を上げた。
目が合う。
さっきまでとは違う、まっすぐな視線だった。
「帰るか」
そう言うと、奈緒は小さく頷いた。
それ以上、言葉はなかった。
店を出ると、夜の空気は少しだけ冷たかった。
車に乗り込み、エンジンをかける。
来たときと同じ道を走っているはずなのに、車内の空気はまるで違っていた。
奈緒は何も話さなかった。
ただ、窓の外を見ていた。
しばらくして、奈緒のマンションの前に車を止めた。
「今日はありがとうございました」
そう言って、奈緒はドアに手をかける。
一度だけ、こちらを見た。
何かを言いかけて、やめたように見えた。
そのままドアを開け、外に出る。
数歩歩いたところで、足を止めた。
振り返る。
「……部屋、寄っていきますか?」
静かな声だった。
私は少しだけ間を置いた。
そのあと、ドアを開けた。
エレベーターに乗り込むと、奈緒は何も言わなかった。
狭い空間の中で、かすかに酒の匂いが混ざる。
階数が上がるごとに、妙な静けさだけが残っていった。
扉が開き、奈緒の後について部屋へ入る。
「すみません、散らかってて」
そう言いながら、軽く部屋の中を整える。
生活感のある空間だった。
どこか落ち着く匂いがした。
奈緒は一度こちらを見て、何か言おうとしてやめる。
そのまま、ゆっくりと距離を詰めてきた。
言葉はなかった。
ただ、互いの呼吸だけが近くなる。
奈緒の手が、そっと触れた。
そのまま、自然に距離がなくなっていった。
気がつくと、部屋の中は静まり返っていた。
さっきまでの空気が、嘘のように消えている。
奈緒は何も言わず、隣にいた。
私は天井を見上げたまま、しばらく動かなかった。
何かが変わったのは分かっていた。
だが、それが何なのかは、まだはっきりしなかった。
奈緒はゆっくりと体を起こし、ベッドから降りる。
「コーヒー、淹れますね」
いつもと変わらない声だった。
キッチンに立つ背中を見ながら、私は目を閉じた。
部屋を出るとき、奈緒はいつも通りだった。
「今日はありがとうございました」
そう言って、小さく頭を下げる。
それ以上、何も言わなかった。
私も、何も言わなかった。
車に戻り、エンジンをかける。
夜の街は、変わらず静かだった。
さっきまでいた場所だけが、どこか遠く感じる。
信号待ちで止まり、ふと奈緒の言葉を思い返す。
好きという気持ちは、なくならない。
その言葉だけが、やけに残っていた。

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