マンションのドアを開けると、いつもの匂いがした。
背中はまだ熱を持っている。シャツが擦れるたび、じんわりとした痛みが遅れて追いついてくる。
「おかえり」
早苗がキッチンから顔を出した。
いつもと同じ声だった。
靴を脱いで部屋に上がる。
ソファに腰を下ろそうとしたとき、
「……ちょっと待って」
早苗の声が、少しだけ低くなった。
私の背中を見ている。
「……それ」
振り返ると、早苗は私のシャツを指差していた。
白い生地に、墨の黒と血の赤が入り混じって滲んでいる。
早苗が駆け寄る。
「大丈夫? ちょっと横になって」
シャツを捲り、ラップとガーゼを剥がす。
黙ったまま、じっと背中を見る。
何も言わず、そっと優しく撫でた。
「すごいね……きれいだね……」
筋彫りに沿って、指先が静かに動く。
早苗はシャワーで背中をやさしく流してくれた。
「うつ伏せになって」と言われ、ベッドに横になる。
軟膏を塗りながら、早苗が小さく笑う。
「鯉かぁ。鯉くん、これからよろしくね」
ガーゼを貼り終えると、早苗は添い寝するように背中に顔を寄せた。
そして、愛おしそうに鯉へ頬ずりする。
刺青の痛みと、早苗の温もり。
静かな呼吸が背中に伝わる。
そのまま、眠りに落ちた。
ふと目が覚めると、部屋は淡い間接照明の光に照らされていた。
リビングへ行くと、早苗からの置き手紙があった。
洗面台の前に立つ。
初めて、鏡に映る刺青を見る。
自分の背中にいる鯉。
信じられないような、自分の身体ではないような、不思議な感覚。
だが、赤く腫れた痛みが、それが現実だと教えていた。
私はしばらく、鏡の中の鯉を見つめていた。
あのときは、
この鯉がどこまで登れるのか、本気で信じていた。

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