65話「鏡の中の鯉」

マンションのドアを開けると、いつもの匂いがした。

背中はまだ熱を持っている。シャツが擦れるたび、じんわりとした痛みが遅れて追いついてくる。

「おかえり」

早苗がキッチンから顔を出した。

いつもと同じ声だった。

靴を脱いで部屋に上がる。

ソファに腰を下ろそうとしたとき、

「……ちょっと待って」

早苗の声が、少しだけ低くなった。

私の背中を見ている。

「……それ」

振り返ると、早苗は私のシャツを指差していた。

白い生地に、墨の黒と血の赤が入り混じって滲んでいる。

早苗が駆け寄る。

「大丈夫? ちょっと横になって」

シャツを捲り、ラップとガーゼを剥がす。

黙ったまま、じっと背中を見る。

何も言わず、そっと優しく撫でた。

「すごいね……きれいだね……」

筋彫りに沿って、指先が静かに動く。

早苗はシャワーで背中をやさしく流してくれた。

「うつ伏せになって」と言われ、ベッドに横になる。

軟膏を塗りながら、早苗が小さく笑う。

「鯉かぁ。鯉くん、これからよろしくね」

ガーゼを貼り終えると、早苗は添い寝するように背中に顔を寄せた。

そして、愛おしそうに鯉へ頬ずりする。

刺青の痛みと、早苗の温もり。

静かな呼吸が背中に伝わる。

そのまま、眠りに落ちた。

ふと目が覚めると、部屋は淡い間接照明の光に照らされていた。

リビングへ行くと、早苗からの置き手紙があった。

洗面台の前に立つ。

初めて、鏡に映る刺青を見る。

自分の背中にいる鯉。

信じられないような、自分の身体ではないような、不思議な感覚。

だが、赤く腫れた痛みが、それが現実だと教えていた。

私はしばらく、鏡の中の鯉を見つめていた。

あのときは、

この鯉がどこまで登れるのか、本気で信じていた。

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