64話「戻れないと思った日」

早苗を迎えに行く途中、恵美さんに連絡を入れた。

恵美さんはすぐに電話に出た。

「どうしたの? 今、あなたに連絡しようと思ってたの」

「あのう、この前言ってた刺青の件ですが、お願いしようと思って」

少し沈黙が流れ、恵美さんの息遣いだけが聞こえてきた。

「そう……分かったわ。決めたのね。それじゃ明日、昼前に連絡ちょうだい」

いつもより静かな口調だった。

早苗とマンションに帰った。

私はリビングに腰を下ろし、五十万をテーブルに置いた。

「えっ。どうしたのこのお金」

早苗は口に手を当て、私と金を交互に見た。

「佐藤さんから、放免祝いも兼ねてのお礼だって」

「うそー、すごいじゃん。おめでとう!」

そう言って笑った。

私は二十万だけ手に取り、残りを早苗に差し出した。

「これは早苗の分だよ。ずっとおんぶに抱っこだから、何かの足しにして」

「おんぶに抱っことか思ってないよ! これはあなたが使って」

差し戻そうとする手を、私は握った。

「俺の気持ちだから」

早苗はしばらく黙り、何度も頷いた。

「……ありがとう」

翌日、恵美さんに連絡すると、彫り師の住所を教えられた。話は通してあると言う。

普通の民家のような建物だった。

ドアの前に立ち、「よし」と小さく息を吐いた。

「すいません」

二階から「上がってきて」と声がした。

階段を上がり、扉を開けると、上下白のダボシャツを着た彫り師が座っていた。腕や足にはいくつも刺青が彫られている。目つきが鋭かった。

恵美さんの紹介で来たことを伝えると、

「話は聞いてる。座って」

と言われた。

「それで、図柄は決まってるの?」

「いや、まだ決めてないです」

男は一瞬、驚いた顔になった。

「あんた変わってるね。図柄も決めないで来る人間は初めてだよ」

呆れたように笑い、

「若いし、これから出世するなら鯉はどうだ?」

と言った。

「はい、鯉でお願いします」

「どんな鯉がいい? 金太郎鯉とか、いろいろあるぞ」

「お任せでお願いします」

彫り師は少しだけ私を見つめ、それから頷いた。

下着一枚になり、うつ伏せになる。

「額じゃなくて抜きでいいんだよな?」

「はい」

彫り師は硯で墨を摺り、口に筆を咥え、もう一本の筆で背中に描き始めた。

どんな痛みなのかよりも、

ここまで来たらもう戻れない、とそのときは思っていた。

この社会の住人になる――そんな決心をしたつもりだった。

「それじゃ、いくよ」

サク。

身体がビクッと震え、焼けるような痛みが走る。

サク、サク、サク。

部屋の中には、その音だけが響いていた。

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