151話「余韻の中で」

朝の空気を引きずったまま、時間だけが静かに過ぎていった。

気づけば、いつもより少し遅い時間になっていた。

「そろそろ行く?」

美緒がコーヒーを片付けながら、小さくそう言う。

「ああ」

短く答える。

それだけで、十分だった。

玄関で靴を履く。

「いってらっしゃい」

いつもと同じ言葉。

でも、少しだけ柔らかく聞こえた。

軽く手を上げて応える。

ドアを開けると、外の空気が流れ込んでくる。

さっきまでの静けさとは違う、いつもの街の音。

一歩外に出た瞬間、頭のどこかが自然と切り替わる。

振り返ることはしなかった。

それでも、あの部屋の温もりはまだ残っていた。

茉莉花の事務所に戻る。

扉を開けると、いつもの空気がそこにあった。

奥から物音がして、早苗が顔を出す。

「おかえり」

「ああ」

短く返す。

「さっきね、綾さんから連絡あったよ」

そのまま自然に話が続く。

「女の子、4人か5人くらいメドついたって」

思っていたよりも早かった。

「そうか、綾さんやるなあ」

カウンター椅子に腰を下ろすと、早苗がキッチンでコーヒーを淹れはじめた。

「それでね、前に話した通り女の子も生活があるからすぐに仕事したい子もいるみたいなの」

「それじゃ、予定通り月下美人で預かるか」

早苗はカウンターにカップを置き、キッチンから回って隣に座った。

「うん、綾さんが女の子にそう提案したら、みんな安心してたって言ってた」

「それじゃ、いつから働くか綾さんに確認しておいてくれないか」

カップを手に取り口に運んでいると、

「あれっ、その指輪いつからしてるの?」

早苗が何気なく聞いてきた。

「あっ……これか。

早苗が旅行に行ってるときに買ったんだよ。

ピアスを買いに行ったとき見つけてな」

内心ドキッとしたが、平静を装って言った。

「そうなんだ。でも親指って珍しいよね。

何か特別な意味があるの?」

早苗は私の手を取り、指輪を触りながら聞く。

「ああ、店の人が言うには成功とかお守りみたいな意味があるって言ってたな」

美緒が言っていた言葉を、そのまま言った。

「それじゃ、来年から始める茉莉花と花水木が成功するようにってことなんだ」

「ああ、そうだよ。うまくいくようにと思ってな」

早苗が小さく頷く。

「動き出したね」

早苗がぽつりと言う。

「そうだな、綾さんのおかげで女の子も何人か確保できたしな」

早苗が思い出したように言う。

「あのね。ホームページに掲示板を設置しようと思ってるんだよね」

「掲示板?」

「うん、サイト上で女の子とお客さんが、ちょっとしたやり取りをするって感じかな。

メールみたいなものって言えば分かりやすいかな」

「なるほど、それはいいかもな」

「あとね」

早苗は私に向き直って言う。

「月下美人で預かる女の子のことなんだけど、在籍は月下美人で、待機はここでしてもらおうと思うの」

早苗はリビングを見渡しながら続ける。

「綾さんがいるから、流れやノウハウは分かるでしょ。

私や里奈も練習じゃないけど実践できるし、今のうちから慣れておかないとね」

「それいいな!茉莉花になっても女の子は待機場所も変わらないしな」

「でしょ!私もちゃんと考えてるんだよ」

そう言って早苗は得意げな顔をした。

頭のどこかに、さっきまでの時間が残っていた。

コーヒーの味。

何も言わなくても成立していた距離。

あのままの空気で、今は仕事の話をしている。

少しだけ不思議な感覚だった。

静かに、動き出している。

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