美緒の「ありがとう」が、まだ部屋の中に残っていた。
私はコーヒーにもう一度口をつけ、テーブルの上の手帳に目を落とす。
「……で、どこから聞こうか?」
そう聞くと、美緒は小さく頷き、すぐにページをめくった。
「まず、必要な書類なんですが――」
迷いのない声だった。
さっきまでの“お願い”とは違う。
もうそこにあるのは、やると決めた人間の話し方だった。
私はその横顔を見ながら、ふと考える。
本当に、このまま任せていいのか。
いや――
任せると決めたのは、自分だ。
「直人さん?」
美緒が私の顔を覗き込むように見る。
「ああ、ごめん。ちゃんと聞いてたよ」
手帳に目を戻すと、美緒が「広告媒体」という文字を赤ペンで囲み、指で示していた。
「今までは広告は、求人も含めて新聞の小さな枠にしか掲載できなかったじゃないですか」
美緒はページを一枚めくる。
そこには、ホームページやドメインといった文字が並んでいた。
「花水木の広告や求人は、インターネットをメインにしようと思ってるんです。今日、警察署で聞いたら問題ないって言ってましたから」
そう言って、美緒はペンを指でくるくると回し、どこか得意げな笑顔で私を見た。
私は少し呆気にとられたまま、その顔を見ていた。
「ちょっと待ってくださいね」
美緒は立ち上がり、本棚の下からノートパソコンを取り出すと、テーブルに置いて電源を入れた。
画面に表示されたホームページを開きながら、美緒は私にも分かるように一つ一つ説明していく。
その説明は、不思議とすんなり頭に入ってきた。
「美緒すごいな。こんなの、まだ誰も考えてないんじゃないか。教え方も学校の先生みたいだ」
私が腕を組んで感心していると、
「それじゃ、美緒先生って呼んでください」
美緒はそう言って笑い、私もつられて笑った。
「私、明日からホームページ作成にとりかかりますね」
小さくガッツポーズをしながら、美緒は言った。
「美緒、お腹すいたな。飯でも食いに行くか?」
「今日……時間は大丈夫なんですか?」
美緒は少し視線を落として聞いた。
「ああ、大丈夫だよ」
「それじゃ、ご飯つくります。直人さんが来るから、買い物してきたんです」
嬉しそうに微笑みながら、美緒はキッチンへ向かった。
私は美緒の手帳を手に取り、ソファーに背を預けてページをめくる。
そこには、店のコンセプトや料金設定、ホームページに使う花水木のイメージカラー。
女の子の視点から見た改善点や待遇などが、小さな字でびっしりと書き込まれていた。
次のページをめくると、茉莉花のことも書き留めてあった。
私は手帳を閉じる。
そして、静かになった部屋の中で、もう一度だけ考える。
花水木のこと。
そして、茉莉花のことを。

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