マンションに戻り、美緒の部屋に入ると、いつもの甘い香りが、さっきよりはっきりと広がっていた。
「コーヒー淹れてきますね」
そう言って、美緒はキッチンへ向かった。
私はソファーに腰を下ろし、バッグからノートとペンを取り出してテーブルに置いた。
カリカリと豆を挽く心地よい音が聞こえる。
やがて、チョコのような甘いコーヒーの香りがリビングに広がってきた。
美緒がマグカップを二つテーブルに置き、私の隣に座る。
私はコーヒーを一口飲んだ。
「うん、美味い」
そう言うと、美緒は満足げに微笑んだ。
「それで、警察署の方はどうだった?」
「はい、届出の件はですね」
そう言いながら、美緒は手帳を開いた。
「すんなり教えてくれたのか?」
「いえ、最初はかなり怪訝そうな目で、頭から足まで値踏みするように見られました」
美緒は淡々と話を続ける。
机を挟んで座った警察官は、無言で椅子を指差し、座るように合図したという。
そして最初に聞かれたのは、
「おたく、誰かに頼まれて聞きに来たの?」
という一言だった。
美緒は少し前屈みになり、小さな声で答えた。
「実は私……今、女の子で働いていて。届出制になるって話を店長たちがしているのを聞いて、私にも出来るかもしれないと思って……話を聞きにきました」
恥ずかしそうにそう言うと、警察官の目つきが変わったらしい。
怪訝な目は好奇の色に変わり、口の端に笑みを浮かべながら、今度は一方的に話し始めたという。
風営法はこの先もまた変わる可能性があり、今回の届出制については、店舗数や経営者を明確にすることが狙いのようだ。
美緒は手帳に、届出に必要なものをすべて箇条書きでまとめていた。
「すごいな、美緒。これで必要なものも、届出制の目的も分かったな。あとは施行される前までに準備しておけば問題ない」
私はそう言いながら、美緒の手帳に目を落とした。
「直人さん……お願いがあります」
美緒は体をこちらに向け、真っ直ぐに私を見た。
「何?どうした?」
「花水木は、私に届出させてください」
その声は落ち着いていたが、確かな覚悟が込められていた。
私はすぐには答えず、少し間を置いてから美緒の目を見る。
この選択で、彼女の立場も未来も変わる。
守るべきか、任せるべきか、一瞬だけ迷いがよぎった。
「届出するってことは、花水木は美緒の名義になるんだぞ。もし何かあった場合……美緒が最初に表に立つことになる」
「はい。分かってます」
間を置かずに、美緒は答えた。
「花水木は、直人さんと私が決めた名前です……最初から最後まで関わりたいんです」
一瞬、美緒は目を伏せる。
「……すべてを見届けたいです」
部屋の中に沈黙が流れた。
時計の音だけが、静かに響いている。
「分かった」
私はそう言った。
「ありがとう……直人さん」
美緒は顔を上げ、安心したように微笑んだ。

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