居酒屋を出たときは日付も変わり、もう大晦日だった。
年末の街は、夜中でもまだどこか浮ついた空気に包まれていた。
居酒屋を出ると、冷えた夜風の中でリトが小さく肩をすくめる。
「サムイねぇ……」
「風邪引かないよう」
そう言いながらタクシーを止める。
リトは乗り込む直前、不意にこちらを見た。
「ナオト」
「ん?」
「今日、ありがとうネ」
その顔は、店で笑っていた時よりずっと素に近かった。
「また連絡するヨ」
「あぁ、気をつけてね」
タクシーのドアが閉まり、車は夜の街へ消えていく。
そのテールランプを見送りながら、美緒が小さく笑った。
「リト、直人さんのこと結構好きだよね」
「そうか?」
「うん。信用してる感じする」
その言葉に、少しだけさっきの続きを聞いているような気分になる。
“信用したらみんな買うヨ”
リトの言葉が、まだ頭のどこかに残っていた。
「帰ろっか」
美緒が白い息を吐きながら言う。
「あぁ」
マンションへ戻る頃には、もう深夜すぎだった。
部屋へ入ると、いつもの部屋の空気と一緒に柔らかい匂いが広がる。
美緒はコートを脱ぎながら笑った。
「なんか今日、長かったね」
「確かに」
「でも楽しかった」
そう言って、美緒は自然に隣へ座る。
その距離感が、少し前までとはもう違っていた。
「弘の奴だいぶ酔ってたな」
「でも、弘さんすごく楽しそうだったね。
あっ、コーヒー飲むでしょ」
美緒はそう言って立ち上がりキッチンへ向かう。
ソファーに体を預け、さっきのリトとの会話をぼんやりと思い出す。
しばらくすると、いつものコーヒーの良い香りが部屋に広がる。
「はい、コーヒーはいったよ」
美緒がカップをテーブルに置き隣に座る。
「ああ、ありがとう」
「なに考えてたの?」
「ん? いや、リトって何歳ぐらいなのかなって」
「リトは四十二歳なんだって」
そう言ってカップを両手で持ち、口に運ぶ。
「えっ、なんで知ってるんだ?」
思わず体を起こし、座り直す。
「うん、メイたちにフィリピンの家族の話を聞いていたら、リトの話になったから聞いてみたの」
美緒はコーヒーを一口飲んでから続ける。
「それでね、リトはタレントとお店の間に立つみたいなポジションで、タレントからは頼りにされてるみたいだよ」
「なるほどな。それじゃリトはタレントにとって、日本でのお父さんやお兄さんみたいなもんなんだな」
「うん、そうみたいだね」
美緒が肩へ軽く寄りかかってくる。
「……眠い?」
「ちょっとだけ」
そう言いながらも、美緒は離れない。
私はその髪を軽く撫でる。
静かな部屋。
「明日、お節作るんだ」
「朝から? 大変だな」
「うん、美咲ちゃん達にも持っていく約束したし」
「美咲と?」
「うん。忘年会の時にね」
その言い方が、妙に美緒らしかった。
「……今年も明日で終わりだね」
美緒が小さな声で言う。
「あぁ」
「直人さん、今年どうだった?」
少し考えてから笑う。
「色々ありすぎたな」
「ふふっ、確かに」
美緒も笑った。
そのあと、少しだけ静かな時間が流れる。
言葉は多くなかった。
でも、その沈黙は不思議と心地よかった。
翌朝、美緒は朝からキッチンへ立っていた。
部屋には出汁の匂いが広がっている。
黒豆。
数の子。
煮物。
テーブルには少しずつ正月の色が並び始めていた。
「手伝おうか?」
「いいよ。直人さん危なっかしいから」
「ひどい言い方だな」
「事実です」
美緒は笑いながら昆布を切っている。
その横顔を見ながら、俺は高梨社長へ短くメールを送った。
『この間はお世話になりました。正月明け、お時間いただけますか?』
送信して数分後。
すぐに返信が返ってくる。
『こちらこそです。それでは、年明けに連絡させていただきます。
良いお年をお迎えください。』
やっぱり動きは早い。
昼前、私は茉莉花に戻った。
玄関を開けた瞬間、賑やかな声が聞こえる。
「おかえりー!」
里奈ちゃんだった。
リビングでは、早苗と綾さん、それに女の子達まで集まって料理をしている。
「すごい人数だな」
「大晦日だからねー!」
里奈が楽しそうに笑う。
テーブルの上には、お節料理や鍋の材料が並んでいた。
茉莉花も月下美人も営業している。
予定のない子は出勤する女の子達も多い。
その合間にみんなで年を越すらしかった。
「あとね!」
里奈ちゃんが包丁を持ったまま振り返る。
「夜みんなで初詣行こうって話してるの!」
「初詣?」
「うん! 綾さんも行くって!」
綾は少し照れたように笑った。
その横で、早苗だけが少し静かだった。
「あなたの予定は?」
その言葉に、一瞬だけ空気が止まる。
私は軽く肩をすくめた。
「月下美人も営業してるからな。夜はちょっと顔出しに行かないとな」
そう答えると、早苗は少しがっかりしたような顔で小さく笑った。
「そっか。でも顔出すのは遅い時間よね」
その声は、いつも通り優しかった。
「あぁ」
そう返しながら、俺はどこへ向かうのかもう分かっていた。
多分今夜も——美緒のマンションへ戻る。


コメント