150話「それで十分だった」

目が覚めると、カーテンの隙間から柔らかい光が差し込んでいた。

まだ少し眠気の残る視界の中で、隣にある温もりに気づく。

規則的な呼吸。  

触れている腕の重さ。

視線を落とすと、美緒がすぐそこにいた。

昨夜のことを思い出すまでもなく、それが当たり前みたいにそこにある。

こんな朝が、いつの間にか自然になっていることに、ほんの少しだけ驚く。

起こさないように、少しだけ身体をずらす。

……起きてる?」

小さな声がして、目を向ける。

いつの間にか、美緒がこちらを見ていた。

「少しだけな」

そう答えると、くすっと笑う。

「じっとしてて」

何をするでもなく、自然に手が伸びてくる。

前髪に触れて、少しだけ整える。

「そのままだと、ちょっとだけ変」

「そうか?」

「うん」

軽く指先で直して、満足したように小さく頷く。

その距離のまま、視線が合う。

少しだけ間があって――

美緒の方から、そっと触れてくる。

短く、柔らかく。

それが当たり前みたいに。

離れても、距離は近いままだった。

「コーヒー、淹れるね」

小さくそう言って、ベッドから降りる。

さっきまでの空気をそのまま連れていくような、自然な動きだった。

キッチンから音がする。

豆を挽く音。  

お湯が沸く音。  

カップが触れる音。

そのどれもが、やけに落ち着く。

しばらくして、湯気の立つカップが差し出された。

「はい」

「ああ」

受け取ると、ほんのりと温かい。

口をつける。

昨日と同じ味。

隣に美緒が座る。

何も言わない。

それでも、その時間が自然に流れていく。

「ね」

小さく声がする。

「ん?」

「ちょっとだけ、いい?」

そう言って、こちらを見る。

何のことか聞く前に、美緒がソファの方へ軽く視線を送る。

「こっち来て」

促されるままに腰を下ろすと、美緒が隣に座る。

少しだけ間を空けてから、ぽんと自分の膝を軽く叩いた。

「横になって」

……あっ、うん」

少し遠慮がちに頭を乗せる。

「うん、もう少しこっち」

美緒は私の頭を抱え引き寄せた。

頭を乗せると、柔らかさと同時に、どこか落ち着く感触があった。

見上げると、美緒の顔がすぐ近くにある。

髪を掻き分け耳を優しく触る。

「じっとしてて」

小さくそう言って、美緒が小さな容器を手に取る。

見慣れないものだった。

「それ、なに?」

「これ?」

軽く振って見せる。

「ミミクリン。使うと気持ちいいよ」

蓋を開けた瞬間、ふわっと甘い香りが広がる。

どこか柔らかくて、落ち着く匂いだった。

綿棒の先に少しだけ含ませる。

「ちょっと冷たいかも」

そう言って、耳に触れる。

ひやりとした感触。

そのあとに、ゆっくりとした動き。

くすぐったさと気持ちよさが混ざる。

……いい匂いだな」

「でしょ?」

上から落ちてくる声。

美緒の温もりが、そのまま伝わってくる。

視界の端で、美緒の髪が揺れる。

指先が触れるたびに、意識がそっちに向く。

……こういうの、好きなんだ」

ぽつりと呟く。

「うん。私も」

静かな声だった。

それ以上は言わない。

優しく触れる手。温もり。美緒の柔らかな匂い。

目を閉じていると眠ってしまいそうになる。

こんな時間が、当たり前みたいに流れていることに、ふと気づく。

やがて手が止まる。

「はい、終わり」

少しだけ満足そうに、美緒が息をついた。

目を開けると、すぐ近くで目が合う。

ほんの少しの間。

そのまま、美緒の方からゆっくりと距離が縮まる。

触れるだけのキス。

それだけで、十分だった。

身体を起こさずそのままでいた。

美緒は何も言わず、髪や頬を優しく撫でる。

何も特別なことはしていないのに、

その距離だけが、昨日よりも当たり前になっていた。

ふと時計を見ると、いつもより少しだけ遅い時間だった。

「今日の予定は?」

「昼からで大丈夫」

そう答えると、美緒が小さく頷く。

「そっか」

柔らかく微笑む。

「じゃあ、ゆっくりできるね」

身体を起こすとすぐ隣にいるまま。

何気ない朝。

特別なことは何もない。

それでも、もう元の距離には戻らないことだけは、はっきりしていた。

美緒が軽く肩を寄せてくる。

拒む理由はなかった。

そのまま、受け入れる。

何も言わないまま、時間だけがゆっくりと流れていく。

それで十分だった。

それ以上、何もいらなかった。

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