茉莉花の事務所を出て、ポケットの中の携帯を取り出す。
見ると美緒からメールがきていた。
『終わったよ』
短い一文。
それだけなのに、さっきまでの空気が、少しだけ遠くなる。
『あとで行く』と返信して携帯を閉じポケットにしまった。
冷たい空気が、頬に触れる。
車に乗りエンジンをかけた。
ドアを開けると、部屋の中は暖かかった。
「おかえり」
キッチンの方から、美緒の声がする。
「早かったな」
「うん、思ったよりね」
そう言って振り向いた美緒は、少しだけラフな格好をしていた。
肩の力が抜けた、その感じが妙に目に残る。
「コーヒー、飲む?」
「うん」
自然にそう返して、ソファに腰を下ろす。
カップに注がれる音と、静かな時間。
そのどちらもが、朝と似ていた。
美緒が自然と隣に座る。
いつもより距離は近い。
「今日、どうだった?」
「いつも通りだよ」
自分でも、そう思おうとしているような言い方だった。
短いやり取り。
それでも、どこか落ち着く。
カップに口をつけると、朝と同じ味がした。
なのに、どこか違って感じた。
「やっぱり美味いな」
そう言うと、美緒が少しだけ笑う。
「でしょ?」
そのまま、少しだけ沈黙が落ちる。
不思議と、気まずさはなかった。
「ねえ」
美緒が小さく声をかける。
「ん?」
「今日は」
言いかけて、少しだけ言葉を止める。
「……やっぱりいい」
そう言って、視線を外した。
「なんだよ」
「なんでもない」
軽く笑う。
けれど、そのまま終わらない空気が残る。
少しだけ身体を預けるようにして、美緒が身体を寄せてくる。
肩が触れる。
それだけなのに、さっきまでよりも体温を強く感じた。
「どうした?」
「嫌?」
小さく聞かれる。
「いや」
そう答えると、美緒はそのまま動かなかった。
けれど、離れる気配もない。
指先が、わずかに触れる。
ほんの一瞬。
それだけで、空気が変わる。
言葉にするほどのことじゃないのに、
戻ることもできない気がした。
指先が触れたまま、どちらも離れなかった。
ほんのわずかな接触なのに、そこだけ熱を持っているみたいだった。
美緒がゆっくりとこちらを見る。
視線が合う。
何かを確かめるような、静かな間。
そのまま、美緒の方から少しだけ顔を近づけてくる。
避ける理由はなかった。
それでも、自分から動こうとはしていないことに気づく。
ほんのわずかな距離。
触れるか、触れないか。
その境目で、時間が止まったみたいだった。
「……直人さん」
小さな声。
確認というより、確かめるような響き。
「美緒」
短く答える。
それだけで十分だった。
次の瞬間、唇が触れる。
触れる、というより確かめるように。
一度離れて、また触れる。
さっきまでの距離とは、もう違っていた。
美緒の指が、そっと腕に触れる。
引き寄せるように、少しだけ力が入る。
そのまま、もう一度。
今度はさっきよりも長く。
何も言葉はなかった。
それでも、十分に伝わっていた。
やがて、わずかに離れる。
近いままの距離で、息だけが残る。
「……近いね」
美緒が小さく笑う。
「今さらだろ」
そう返すと、また少しだけ距離が縮まる。
さっきまでとは違う意味で、離れられない気がした。
ふと視線を外すと、部屋の端に置いた紙袋が目に入る。
持ってきたまま、まだそのままにしていた。
「それ、なに?」
美緒が覗き込む。
「ああ、ちょっと着替えとか」
そう言って立ち上がる。
「置いとこうと思ってな」
クローゼットを開けると、美緒も隣に来た。
「こっち使っていいよ」
そう言いながら、自分の下着や服が入っている引き出しを開ける。
迷いなく、その中に少しスペースを作った。
俺のシャツや下着を、その隣に並べていく。
丁寧というより、自然な手つきだった。
シャツやジャケットはハンガーにかけ、美緒の洋服の横に並んだ。
「これでいいね」
嬉しそうに、小さく笑う。
「ああ」
短く返す。
それ以上、何も言わなかった。
引き出しが閉まる。
その音が、やけに静かに残った。
「ね」
振り返ると、すぐ近くに美緒がいた。
「今日も…泊まれるんだよね?」
確認するような声。
前なら、「時間あるの?」と聞いていたはずだった。
「ああ」
短く答える。
それだけで、美緒の表情が少し柔らいだ。
「よかった」
小さくそう言って、腕を絡めてくる。
自然な動きだった。
そのまま引かれるようにして、ベッドの方へと歩く。
「ちょっとだけ、こっち」
軽く押されるようにして腰を下ろすと、美緒が隣に座る。
肩が触れる。
さっきよりも、迷いがない。
「あのね」
ぽつりと呟く。
「私から、こうしてみたかったの」
少しドキッとする。
「そうか」
「うん。」
そう言って、くすっと笑う。
そのまま、ゆっくりと身体を預けてくる。
今度は、ちゃんと受け止める。
腕を回すと、美緒が少しだけ力を抜いた。
「こういうの、好き」
小さな声。
「ああ」
それ以上の言葉は出なかった。
美緒が顔を上げる。
目が合う。
さっきよりも、迷いはなかった。
自然に距離が縮まる。
今度は、自分から少しだけ近づく。
触れるだけじゃなく、確かめるように。
美緒が応える。
そのまま、ゆっくりと深くなっていく。
指先が絡む。
呼吸が重なる。
さっきまでの静けさとは違う、柔らかい熱が広がる。
離れたあとも、距離は近いままだった。
「ね」
美緒が小さく笑う。
「今日は、ずっと一緒にいようね」
「ああ」
今度は、さっきよりも自然に頷けた。
そのままもう一度、引き寄せる。
考えるより先に、身体が動いていた。

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