エレベーターを降りて、静かな廊下を歩く。
さっきまでのざわめきが、嘘みたいに遠かった。
鍵を開けて中に入ると、部屋の空気がふっと迎え入れる。
明かりをつけると、いつもの景色が広がった。
後ろでドアが閉まる音がする。
振り向くと、美緒がコートを脱ぎながら小さく息をついていた。
「なんか、静かですね」
そう言って、少し笑う。
「ああ」
短く返す。
それだけで、さっきまでの夜が少しだけ遠くなる。
靴を脱ぎ、部屋に上がる。
店の光や音が、まだ体のどこかに残っていた。
ストーブに火をつけてその前に座ると、美緒が自然と隣に座った。
青白い炎が広がり、やがてやわらかなオレンジに変わる。
かすかに揺れる光が、部屋の輪郭をゆるく滲ませていた。
美緒は身体を寄せ、腕を絡める。
「久しぶりに飲んじゃった。
直人さんが初めて私のマンションに来たとき以来かな。」
「そうだったかな」と短く返した。
「ねぇ…今日は…時間、大丈夫?」
美緒は炎を見つめたまま言った。
「ああ、大丈夫だよ」
「うん。」
小さく頷く。
絡めた手に、少しだけ力が入った。
しばらくふたりで、揺れる火を眺めていた。
酔いのせいか、灯りのせいか、美緒の頬がわずかに赤く見える。
「コーヒー、淹れましょうか?」
キッチンの方を見ながら言う。
「ああ、ありがとう」
それだけのやり取りが、妙に落ち着いた。
豆を挽く音が、小さく部屋に広がる。
その音を聞きながら、さっきの夜を思い返す。
ステージの光。
グラスの音。
リトの声。
断片のように浮かんでは、静かに沈んでいく。
この静けさの中にいると、
さっきまでの時間が、どこか遠い出来事のように感じられた。
「楽しかったですね」
コーヒーを運びながら、美緒が言った。
「ああ」
カップを受け取り、ソファーに腰を下ろす。
少しだけ間があって、
「思ってたより、ちゃんとしてたな」
そう言うと、美緒が小さく笑った。
「ちゃんとしてたって、どういう意味?」
「いや、なんとなくもっと騒がしいだけの店かと思ってた」
正直な感想だった。
美緒は「たしかにね」と頷きながら、隣に腰を下ろす。
「でも、ああいうお店って、ちゃんと見てる人多いですよ」
カップに口をつけながら、少し視線を落とす。
「誰がどこに座ってるかとか、誰が何飲んでるかとか」
「へえ」
「あと、距離の取り方とかですね」
そう言って、少しだけ笑う。
その言葉で、ふとリトの顔が浮かんだ。
「あのリトって人も、そんな感じか」
何気なく言うと、
「うん、たぶん」
美緒はすぐに頷いた。
「自然だったでしょ?」
「ああ」
思っていたよりも、ずっと。
「無理してる感じがなかった」
「そういう人、うまいですよ」
美緒はコーヒーを一口飲んで、少しだけ目を細める。
「ちゃんと見てるし、ちゃんと外してくる」
「外す?」
「踏み込みすぎないってことです」
その言葉に、さっきの視線がよぎる。
こちらを見ているようで、見ていない距離。
「なるほどな」
カップを口に運ぶ。
温かさが、ゆっくりと体に落ちていく。
しばらく、言葉はなかった。
けれど、その沈黙は心地よかった。
同じ場所にいて、同じ時間を見てきた。
それだけで、十分だった。
気がつくと、コーヒーはすっかり冷めていた。
それでも、そのままカップを手に持っていた。
隣にいる気配が、心地よかった。
少しして、美緒がゆっくりと立ち上がる。
「お風呂…どうします?」
振り向いた顔が、さっきよりも近く感じた。
「ああ」
短く答えると、美緒は小さく頷いて、そのまま浴室の方へ向かった。
ドアが開いた瞬間、ふわりと甘い香りが流れてくる。
やわらかく、どこか残るような匂い。
明かりはついていなかった。
代わりに、キャンドルの灯りだけが静かに揺れている。
「これ、好きなんです」
美緒の声が、いつもより少しだけ低い。
浴槽には、乳白色の湯が満ちていた。
湯気がゆっくりと立ちのぼり、空間をやわらかくぼかす。
先に入った美緒が、縁に手をかけてこちらを見る。
「どうぞ」
その言い方が、どこか柔らかかった。
湯に足を入れると、じんわりとした熱と一緒に、香りがまとわりつく。
身体を沈めると、視界の中で灯りがにじむ。
その向こうに、美緒の輪郭がぼんやりと浮かぶ。
手を伸ばせば触れられる距離。
一瞬だけ迷ってから、後ろからそっと腕を回す。
湯の中で触れた体温が、思っていたよりも近い。
美緒の肩が、わずかに息を吸うように動いた。
けれど、そのまま逃げることはなかった。
むしろ、ほんの少しだけ身を預けてくる。
「…あったかい」
小さくこぼれた声が、やけに近くで響いた。
乳白色の湯が、ふたりの境界を曖昧にする。
どこまでが自分で、どこからが相手なのか、
はっきりしないまま、時間だけがゆっくりと流れていく。
しばらく、そのままの体勢で湯に身を預けていた。
規則的な水の音と、かすかに揺れる灯り。
それだけが、この空間を満たしていた。
「髪、洗いましょうか」
美緒が静かに言う。
「ああ、ありがとう」
腕をほどくと、美緒は少し前に身体をずらした。
その距離が、さっきよりも少しだけ遠く感じる。
シャワーの音が小さく響き、温かい水が頭に落ちてくる。
指が髪に触れる。
ゆっくりと、確かめるような動き。
泡立つ音と、指の感触。
そのどちらもが、妙に意識に残る。
「こうやってちゃんと見るの、初めてかも」
ふいに、美緒が小さく言った。
「何が?」
「背中…」
指の動きが、少しだけ止まる。
「刺青」
その一言で、空気がわずかに変わる。
キャンドルの灯りが、揺れる。
「思ってたより…綺麗ですね」
どこか、ためらうような言い方だった。
否定でもなく、興味だけでもない。
ただ、目の前にあるものをそのまま受け取ろうとしている感じ。
「そうか」
短く返すと、
「うん」
今度ははっきりと、そう頷いた。
再び指が動き出す。
さっきよりも、少しだけゆっくりと。
背中を流れる湯と、その上をなぞる指先。
触れられている場所が、はっきりと分かる。
けれど、それ以上の意味を持たせようとはしていない。
その距離が、心地よかった。
「流しますね」
シャワーの音が、少しだけ強くなる。
泡が落ちていくのと一緒に、
さっきまでの緊張も、ゆっくりとほどけていく気がした。
タオルで軽く水気を取られながら、
ふと、美緒の指が一瞬だけ止まる。
「……触っても、大丈夫ですか?」
小さな声だった。
振り向くと、すぐ近くにその視線がある。
「ああ」
そう答えると、
美緒はそっと、背中に指を置いた。
なぞるように、ゆっくりと。
確かめるみたいに。
キャンドルの灯りが、その動きをやわらかく映していた。
しばらくそのまま、言葉はなかった。
けれど、不思議と気まずさはなかった。
むしろ、さっきよりも静かで、落ち着いた空気が流れていた。
「もう一回、入ります?」
美緒が、少しだけ柔らかく言う。
「ああ」
短く答えると、
美緒は小さく頷いて、先に浴槽へと身体を沈めた。
白く濁った湯が、ゆっくりと揺れる。
少し間を置いてから、後を追う。
湯に入った瞬間、さっきと同じ温度のはずなのに、
どこか違って感じた。
自然と、美緒の背中がすぐ目の前にある。
そっと腕を回す。
湯の中で、後ろから包み込むように。
美緒の身体が、わずかに息を吸うように動く。
けれど、すぐに力が抜けて、そのまま預けてくる。
背中越しに伝わる体温が、さっきよりもはっきりと近い。
乳白色の湯が、ふたりの輪郭を曖昧にしていく。
どこまでが自分で、どこからが相手なのか、
分からなくなるような距離。
「……落ち着きますね」
小さくこぼれた声が、胸のあたりに静かに響く。
「ああ」
短く答えながら、腕にほんの少しだけ力を込める。
そのまま、美緒がさらに身体を預けてくる。
重さは軽いのに、存在ははっきりとしていた。
キャンドルの灯りが、水面に揺れる。
その揺れと同じリズムで、
時間もゆっくりと流れていく。
言葉はもういらなかった。
触れているだけで、十分だった。
名残を残したまま、ゆっくりと湯から上がる。
浴室を出ると、さっきと同じ部屋のはずなのに、空気が少し違って感じた。
ストーブの火はそのまま揺れている。
美緒がタオルで髪を拭きながら、ソファの方へ歩いていく。
「乾かしますね」
当たり前みたいに言って、ドライヤーを手に取る。
「ああ」
ソファに座ると、すぐ後ろに気配が来る。
ドライヤーの音が静かに響く。
指が髪に触れる。
さっき風呂で感じた感触と、どこか似ていた。
何も言わないまま、時間だけが過ぎていく。
やがて音が止まる。
「はい、終わりです」
少しだけ笑った声。
振り向くと、距離が近い。
そのまま少しだけ視線が合う。
「……なんか」
美緒が、少しだけ迷うように言う。
「今日、近いですね」
小さく笑う。
「ああ」
短く答えると、
美緒はそのまま、肩に軽く寄りかかってきた。
触れる重さが、自然だった。
ストーブの炎が、静かに揺れている。
その光を、ふたりで何も言わずに眺める。
さっきまでと同じ部屋。
同じはずなのに、
隣にいる距離だけが、少し変わっていた。
それだけで、十分だと思えた。

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