146話「近くなる夜」

エレベーターを降りて、静かな廊下を歩く。

さっきまでのざわめきが、嘘みたいに遠かった。

鍵を開けて中に入ると、部屋の空気がふっと迎え入れる。

明かりをつけると、いつもの景色が広がった。

後ろでドアが閉まる音がする。

振り向くと、美緒がコートを脱ぎながら小さく息をついていた。

「なんか、静かですね」

そう言って、少し笑う。

「ああ」

短く返す。

それだけで、さっきまでの夜が少しだけ遠くなる。

靴を脱ぎ、部屋に上がる。

店の光や音が、まだ体のどこかに残っていた。

ストーブに火をつけてその前に座ると、美緒が自然と隣に座った。

青白い炎が広がり、やがてやわらかなオレンジに変わる。

かすかに揺れる光が、部屋の輪郭をゆるく滲ませていた。

美緒は身体を寄せ、腕を絡める。

「久しぶりに飲んじゃった。

直人さんが初めて私のマンションに来たとき以来かな。」

「そうだったかな」と短く返した。

「ねぇ…今日は…時間、大丈夫?」

美緒は炎を見つめたまま言った。

「ああ、大丈夫だよ」

「うん。」

小さく頷く。

絡めた手に、少しだけ力が入った。

しばらくふたりで、揺れる火を眺めていた。

酔いのせいか、灯りのせいか、美緒の頬がわずかに赤く見える。

「コーヒー、淹れましょうか?」

キッチンの方を見ながら言う。

「ああ、ありがとう」

それだけのやり取りが、妙に落ち着いた。

豆を挽く音が、小さく部屋に広がる。

その音を聞きながら、さっきの夜を思い返す。

ステージの光。

グラスの音。

リトの声。

断片のように浮かんでは、静かに沈んでいく。

この静けさの中にいると、

さっきまでの時間が、どこか遠い出来事のように感じられた。

「楽しかったですね」

コーヒーを運びながら、美緒が言った。

「ああ」

カップを受け取り、ソファーに腰を下ろす。

少しだけ間があって、

「思ってたより、ちゃんとしてたな」

そう言うと、美緒が小さく笑った。

「ちゃんとしてたって、どういう意味?」

「いや、なんとなくもっと騒がしいだけの店かと思ってた」

正直な感想だった。

美緒は「たしかにね」と頷きながら、隣に腰を下ろす。

「でも、ああいうお店って、ちゃんと見てる人多いですよ」

カップに口をつけながら、少し視線を落とす。

「誰がどこに座ってるかとか、誰が何飲んでるかとか」

「へえ」

「あと、距離の取り方とかですね」

そう言って、少しだけ笑う。

その言葉で、ふとリトの顔が浮かんだ。

「あのリトって人も、そんな感じか」

何気なく言うと、

「うん、たぶん」

美緒はすぐに頷いた。

「自然だったでしょ?」

「ああ」

思っていたよりも、ずっと。

「無理してる感じがなかった」

「そういう人、うまいですよ」

美緒はコーヒーを一口飲んで、少しだけ目を細める。

「ちゃんと見てるし、ちゃんと外してくる」

「外す?」

「踏み込みすぎないってことです」

その言葉に、さっきの視線がよぎる。

こちらを見ているようで、見ていない距離。

「なるほどな」

カップを口に運ぶ。

温かさが、ゆっくりと体に落ちていく。

しばらく、言葉はなかった。

けれど、その沈黙は心地よかった。

同じ場所にいて、同じ時間を見てきた。

それだけで、十分だった。

気がつくと、コーヒーはすっかり冷めていた。

それでも、そのままカップを手に持っていた。

隣にいる気配が、心地よかった。

少しして、美緒がゆっくりと立ち上がる。

「お風呂…どうします?」

振り向いた顔が、さっきよりも近く感じた。

「ああ」

短く答えると、美緒は小さく頷いて、そのまま浴室の方へ向かった。

ドアが開いた瞬間、ふわりと甘い香りが流れてくる。

やわらかく、どこか残るような匂い。

明かりはついていなかった。

代わりに、キャンドルの灯りだけが静かに揺れている。

「これ、好きなんです」

美緒の声が、いつもより少しだけ低い。

浴槽には、乳白色の湯が満ちていた。

湯気がゆっくりと立ちのぼり、空間をやわらかくぼかす。

先に入った美緒が、縁に手をかけてこちらを見る。

「どうぞ」

その言い方が、どこか柔らかかった。

湯に足を入れると、じんわりとした熱と一緒に、香りがまとわりつく。

身体を沈めると、視界の中で灯りがにじむ。

その向こうに、美緒の輪郭がぼんやりと浮かぶ。

手を伸ばせば触れられる距離。

一瞬だけ迷ってから、後ろからそっと腕を回す。

湯の中で触れた体温が、思っていたよりも近い。

美緒の肩が、わずかに息を吸うように動いた。

けれど、そのまま逃げることはなかった。

むしろ、ほんの少しだけ身を預けてくる。

「…あったかい」

小さくこぼれた声が、やけに近くで響いた。

乳白色の湯が、ふたりの境界を曖昧にする。

どこまでが自分で、どこからが相手なのか、

はっきりしないまま、時間だけがゆっくりと流れていく。

しばらく、そのままの体勢で湯に身を預けていた。

規則的な水の音と、かすかに揺れる灯り。

それだけが、この空間を満たしていた。

「髪、洗いましょうか」

美緒が静かに言う。

「ああ、ありがとう」

腕をほどくと、美緒は少し前に身体をずらした。

その距離が、さっきよりも少しだけ遠く感じる。

シャワーの音が小さく響き、温かい水が頭に落ちてくる。

指が髪に触れる。

ゆっくりと、確かめるような動き。

泡立つ音と、指の感触。

そのどちらもが、妙に意識に残る。

「こうやってちゃんと見るの、初めてかも」

ふいに、美緒が小さく言った。

「何が?」

「背中…」

指の動きが、少しだけ止まる。

「刺青」

その一言で、空気がわずかに変わる。

キャンドルの灯りが、揺れる。

「思ってたより…綺麗ですね」

どこか、ためらうような言い方だった。

否定でもなく、興味だけでもない。

ただ、目の前にあるものをそのまま受け取ろうとしている感じ。

「そうか」

短く返すと、

「うん」

今度ははっきりと、そう頷いた。

再び指が動き出す。

さっきよりも、少しだけゆっくりと。

背中を流れる湯と、その上をなぞる指先。

触れられている場所が、はっきりと分かる。

けれど、それ以上の意味を持たせようとはしていない。

その距離が、心地よかった。

「流しますね」

シャワーの音が、少しだけ強くなる。

泡が落ちていくのと一緒に、

さっきまでの緊張も、ゆっくりとほどけていく気がした。

タオルで軽く水気を取られながら、

ふと、美緒の指が一瞬だけ止まる。

「……触っても、大丈夫ですか?」

小さな声だった。

振り向くと、すぐ近くにその視線がある。

「ああ」

そう答えると、

美緒はそっと、背中に指を置いた。

なぞるように、ゆっくりと。

確かめるみたいに。

キャンドルの灯りが、その動きをやわらかく映していた。

しばらくそのまま、言葉はなかった。

けれど、不思議と気まずさはなかった。

むしろ、さっきよりも静かで、落ち着いた空気が流れていた。

「もう一回、入ります?」

美緒が、少しだけ柔らかく言う。

「ああ」

短く答えると、

美緒は小さく頷いて、先に浴槽へと身体を沈めた。

白く濁った湯が、ゆっくりと揺れる。

少し間を置いてから、後を追う。

湯に入った瞬間、さっきと同じ温度のはずなのに、

どこか違って感じた。

自然と、美緒の背中がすぐ目の前にある。

そっと腕を回す。

湯の中で、後ろから包み込むように。

美緒の身体が、わずかに息を吸うように動く。

けれど、すぐに力が抜けて、そのまま預けてくる。

背中越しに伝わる体温が、さっきよりもはっきりと近い。

乳白色の湯が、ふたりの輪郭を曖昧にしていく。

どこまでが自分で、どこからが相手なのか、

分からなくなるような距離。

「……落ち着きますね」

小さくこぼれた声が、胸のあたりに静かに響く。

「ああ」

短く答えながら、腕にほんの少しだけ力を込める。

そのまま、美緒がさらに身体を預けてくる。

重さは軽いのに、存在ははっきりとしていた。

キャンドルの灯りが、水面に揺れる。

その揺れと同じリズムで、

時間もゆっくりと流れていく。

言葉はもういらなかった。

触れているだけで、十分だった。

名残を残したまま、ゆっくりと湯から上がる。

浴室を出ると、さっきと同じ部屋のはずなのに、空気が少し違って感じた。

ストーブの火はそのまま揺れている。

美緒がタオルで髪を拭きながら、ソファの方へ歩いていく。

「乾かしますね」

当たり前みたいに言って、ドライヤーを手に取る。

「ああ」

ソファに座ると、すぐ後ろに気配が来る。

ドライヤーの音が静かに響く。

指が髪に触れる。

さっき風呂で感じた感触と、どこか似ていた。

何も言わないまま、時間だけが過ぎていく。

やがて音が止まる。

「はい、終わりです」

少しだけ笑った声。

振り向くと、距離が近い。

そのまま少しだけ視線が合う。

「……なんか」

美緒が、少しだけ迷うように言う。

「今日、近いですね」

小さく笑う。

「ああ」

短く答えると、

美緒はそのまま、肩に軽く寄りかかってきた。

触れる重さが、自然だった。

ストーブの炎が、静かに揺れている。

その光を、ふたりで何も言わずに眺める。

さっきまでと同じ部屋。

同じはずなのに、

隣にいる距離だけが、少し変わっていた。

それだけで、十分だと思えた。

コメント