歌が終わり、ざわめきが少しずつ戻ってくる。
グラスの触れ合う音と、誰かの笑い声、そして聞き慣れない言葉。
さっきまでの静けさが、ゆっくりとほどけていく。
「失礼します」
低い声がして、視界の端に白が入る。
顔を上げると、さっきまでステージに立っていた男が、すぐ目の前にいた。
「リトです。よろしくお願いします」
名刺を差し出しながら、軽く頭を下げる。
思っていたよりも、ずっと自然な声だった。
「こちらこそ」
短く返す。
その一瞬、また目が合った。
けれど今度は、ステージの上とは少し違う距離だった。
「おー、メイ!」
横で弘の声が弾む。
「店で見ると違うねー!」
振り向くと、きわどい衣装を着た女の子が近づいてきていた。
「ハイ、ヒロシ!来てくれたね!嬉しいよ」
そのまま自然に、覚えたばかりであろう日本語と英語、タガログ語が飛び交う。
弘も、片言ながら楽しそうに返している。
そのやり取りの中に、もう一つ、滑らかな英語で喋る声。
視線を向けると、美緒が笑っていた。
驚くほど自然な発音だった。
軽く冗談を挟みながら、相手の言葉を拾って返す。
会話は途切れることなく続いていく。
言葉の流れに、無駄がない。
店の空気に、すっと溶け込んでいた。
その様子を、少し離れたところから見ている自分がいる。
「彼女、英語上手ですね!」
リトが少し驚いたように言った。
視線は美緒に向けたまま、こちらには向けていない。
「ああ、まあ」
曖昧に返す。
「美緒ちゃんは大学で勉強したから英語ペラペラなの!わかる?大学?」
弘がメイに身振り手振りで説明している。
美緒が少し笑いながら、英語で言い直す。
リトが頷きながら何かを返し、短いやり取りのあと、ふっと空気がほどけた。
会話が一区切りついたところで、美緒がこちらを見た。
「リトが、直人さんのことなんて呼べばいいか聞いてます」
私はバッグから名刺を取り出し、リトに手渡しながら言った。
「直人と呼んでください」
「分かりました、直人さんですね」
リトは柔らかい笑顔で言った。
ほんのわずかに、目を細めて。
「……なんか」
少し間を空けて、
「どっかで見たことある気がします」
口元に手をやり、考えるような顔をする。
そんなリトを見て、美緒が英語で何か言った。
「あっ!そうそう!そうです」
リトはパチンと指を鳴らし、美緒とハイタッチして軽く笑う。
「直人さんに、そっくりなフィリピンの俳優さんがいるみたいですよ。メイも言ってました」
「そうなのか」
軽く笑った。
「兄貴、俺歌ってくるっす!」
弘は楽しそうにメイとステージに向かう。
リトが携帯をポケットから取り出し、番号を教えてほしいと言ったので交換する。
入力を終えると、満足そうに携帯をポケットに戻した。
なにか理由があるわけではないが、
リトとは、長い付き合いになりそうな気がした。
楽しそうに歌う弘。
ステージを見て微笑んでいる美緒。
騒がしいはずの店の中で、
その光景だけが、妙に静かに見えた。
この時間が、少しでも長く続けばいいと、
ふと思った。

コメント