145話「リトという男」

歌が終わり、ざわめきが少しずつ戻ってくる。

グラスの触れ合う音と、誰かの笑い声、そして聞き慣れない言葉。

さっきまでの静けさが、ゆっくりとほどけていく。

「失礼します」

低い声がして、視界の端に白が入る。

顔を上げると、さっきまでステージに立っていた男が、すぐ目の前にいた。

「リトです。よろしくお願いします」

名刺を差し出しながら、軽く頭を下げる。

思っていたよりも、ずっと自然な声だった。

「こちらこそ」

短く返す。

その一瞬、また目が合った。

けれど今度は、ステージの上とは少し違う距離だった。

「おー、メイ!」

横で弘の声が弾む。

「店で見ると違うねー!」

振り向くと、きわどい衣装を着た女の子が近づいてきていた。

「ハイ、ヒロシ!来てくれたね!嬉しいよ」

そのまま自然に、覚えたばかりであろう日本語と英語、タガログ語が飛び交う。

弘も、片言ながら楽しそうに返している。

そのやり取りの中に、もう一つ、滑らかな英語で喋る声。

視線を向けると、美緒が笑っていた。

驚くほど自然な発音だった。

軽く冗談を挟みながら、相手の言葉を拾って返す。

会話は途切れることなく続いていく。

言葉の流れに、無駄がない。

店の空気に、すっと溶け込んでいた。

その様子を、少し離れたところから見ている自分がいる。

「彼女、英語上手ですね!」

リトが少し驚いたように言った。

視線は美緒に向けたまま、こちらには向けていない。

「ああ、まあ」

曖昧に返す。

「美緒ちゃんは大学で勉強したから英語ペラペラなの!わかる?大学?」

弘がメイに身振り手振りで説明している。

美緒が少し笑いながら、英語で言い直す。

リトが頷きながら何かを返し、短いやり取りのあと、ふっと空気がほどけた。

会話が一区切りついたところで、美緒がこちらを見た。

「リトが、直人さんのことなんて呼べばいいか聞いてます」

私はバッグから名刺を取り出し、リトに手渡しながら言った。

「直人と呼んでください」

「分かりました、直人さんですね」

リトは柔らかい笑顔で言った。

ほんのわずかに、目を細めて。

「……なんか」

少し間を空けて、

「どっかで見たことある気がします」

口元に手をやり、考えるような顔をする。

そんなリトを見て、美緒が英語で何か言った。

「あっ!そうそう!そうです」

リトはパチンと指を鳴らし、美緒とハイタッチして軽く笑う。

「直人さんに、そっくりなフィリピンの俳優さんがいるみたいですよ。メイも言ってました」

「そうなのか」

軽く笑った。

「兄貴、俺歌ってくるっす!」

弘は楽しそうにメイとステージに向かう。

リトが携帯をポケットから取り出し、番号を教えてほしいと言ったので交換する。

入力を終えると、満足そうに携帯をポケットに戻した。

なにか理由があるわけではないが、

リトとは、長い付き合いになりそうな気がした。

楽しそうに歌う弘。

ステージを見て微笑んでいる美緒。

騒がしいはずの店の中で、

その光景だけが、妙に静かに見えた。

この時間が、少しでも長く続けばいいと、

ふと思った。

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