133話「やさしい迷いの中で」

朝、美緒の部屋で目を覚ました。

キッチンのほうから、水の音が聞こえてくる。

しばらくそのまま天井を見てから、手元の携帯に目を落とした。

弘からメールが届いている。

急ぎではないが、話があるとのことだった。

「分かった、後で連絡する」

短く返して、携帯を閉じた。

この頃から、やり取りは緊急時以外メールが中心になっていた。

そのほうが、こちらとしても都合がよかった。

小さく息をついて、意識を切り替える。

——美緒の引っ越しのことだ。

タイミングを見計らったように、水の音が止む。

少しして、美緒がキッチンから顔を出した。

「起きてたんですね」

エプロン姿のまま、少しだけ笑う。

「ああ」

短く返すと、美緒はそのまま部屋に入ってくる。

「コーヒー、淹れましょうか?」

そう言って、ベッドの横に座った。

美緒は、私を覗き込むように見て。

「どうかしました?」

「いや」

少しだけ間を置いてから、言葉を続ける。

「引っ越しのことなんだけど」

その一言に、美緒の視線がわずかに揺れた。

嬉しそうにも見えて、少しだけ戸惑っているようにも見える。

「……うん」

小さく頷く。

「この間、言ってた物件、見に行かないか?」

そう言うと、美緒は少しだけ目を伏せた。

会話が途切れた。

短い沈黙が流れる。

「私……直人さんが決めたところなら、どこでもいいです」

目を伏せたまま、美緒はそう言った。

「分かった。じゃあ、俺のほうで決めるよ」

静かにそう言うと、美緒は少しだけ顔を上げた。

「美緒。何も気にせず越してこいよ」

続けると、視線がまっすぐこちらに向く。

「……そばに居てほしいんだ」

言い切ると、美緒は何かを考えるように、ほんの少しだけ黙った。

「……分かりました。直人さんの言う通りにする」

その表情から、張りつめていたものが少しだけ抜けた気がした。

美緒はベッドに手をついて、少しだけこちらに近づいた。

「ねえ」

「ん?」

「楽しみでもあるんですよ」

少しだけ照れたように視線を逸らしながら、そう言う。

その言葉に、わずかに口元が緩む。

「分かってる」

そう返すと、美緒は小さく笑った。

さっきまでの迷いとは違う、柔らかい空気がそこにあった。

美緒はコーヒーを淹れに、キッチンへ向かった。

私はベッドに横になったまま、天井を見つめる。

早苗と美緒。

今のままの関係が、この先も続くことがないのは分かっている。

それでも——どちらかを選ぶことが、できなかった。

ずるいのは分かっている。

それでも、美緒を放っておくことはできない。

このままでは、二人とも傷つけることになるかもしれない。

それでも今は、どうすることもできない気がしていた。

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