マンションの前に車を止め、エンジンを切ると、一気に静けさが戻ってきた。
さっきまでいた茉莉花の事務所の空気とは違う、どこか慣れた静けさだった。
エレベーターを出て、美緒の部屋の前に立つ。
インターホンを押すと、少ししてから扉が開いた。
「お疲れさまです」
いつもの柔らかい声だった。
部屋に入ると、コーヒーの香りがした。
「もう着く頃だと思って、コーヒー淹れてたところなんです」
そう言いながら、美緒はキッチンの方へ戻っていく。
私はソファーに腰を下ろし、なんとなく部屋の中を見渡した。
いつもの甘く落ち着いた匂いに、コーヒーの香りが混じった空間。
来るたびにほとんど変わらない景色。
それが心地いいはずなのに、今日は少しだけ違って見えた。
「どうかしました?」
美緒がコーヒーを差し出しながら隣に座り、小さく首を傾げる。
「いや…ちょっと遠いなって思って」
カップを受け取りながら、何気なく口にした。
美緒は一瞬だけ手を止めて、それから静かに笑った。
「そうですね。少し遠いですね」
その言い方が、いつもより少しだけゆっくりに感じた。
会話が途切れ、短い沈黙が流れた。
「なぁ美緒…花水木が動き始めたら…通うの大変じゃないか?」
私はカップの中で揺れるコーヒーを見ながら言った。
「…はい。少し遠いから…大変なときもあると思います」
美緒は両手で包むようにカップを持ち、視線を落としたまま答えた。
「それなら…俺の住んでる街に越してこないか?」
「でも…」
美緒は言葉を続けず、そのまま視線を落とした。
何かを考えているようだった。
「いや…無理にとは言わない。地元を離れたくないなら、それでいいんだ」
言いながら、自分でも少し逃げている気がした。
部屋の空気が、わずかに静まる。
「直人さん…それは私を心配する優しさですか?
それとも…私にそばにいて欲しいからですか…」
小さな声だったが、はっきりとした問いだった。
私はすぐには答えられなかった。
言うべきかどうか、ほんの一瞬だけ迷う。
カップに残ったコーヒーに視線を落とし、それから口を開いた。
「心配なのは本当だ」
そこで言葉が止まる。
続ければ、何かが変わる気がした。
それでも――
「…俺のわがままだけど、美緒にそばにいて欲しい」
言い切ると、部屋はまた静かになった。
美緒はしばらく何も言わなかった。
視線を落としたまま、小さく息を整える。
それからゆっくりと顔を上げた。
「分かりました…」
少しだけ間を置いて、言葉を続ける。
「私、前にも言ったじゃないですか。
私の夢は…直人さんのそばにいることです」
そう言って微笑んだ。
その表情は穏やかだったが、どこか揺れているようにも見えた。
私は何も言わずに、美緒を抱き寄せた。
腕の中で、美緒の身体がわずかに震えているのが分かった。
私はそのまま、しばらく離さなかった。

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