126話「わがまま」

マンションの前に車を止め、エンジンを切ると、一気に静けさが戻ってきた。

さっきまでいた茉莉花の事務所の空気とは違う、どこか慣れた静けさだった。

エレベーターを出て、美緒の部屋の前に立つ。

インターホンを押すと、少ししてから扉が開いた。

「お疲れさまです」

いつもの柔らかい声だった。

部屋に入ると、コーヒーの香りがした。

「もう着く頃だと思って、コーヒー淹れてたところなんです」

そう言いながら、美緒はキッチンの方へ戻っていく。

私はソファーに腰を下ろし、なんとなく部屋の中を見渡した。

いつもの甘く落ち着いた匂いに、コーヒーの香りが混じった空間。

来るたびにほとんど変わらない景色。

それが心地いいはずなのに、今日は少しだけ違って見えた。

「どうかしました?」

美緒がコーヒーを差し出しながら隣に座り、小さく首を傾げる。

「いや…ちょっと遠いなって思って」

カップを受け取りながら、何気なく口にした。

美緒は一瞬だけ手を止めて、それから静かに笑った。

「そうですね。少し遠いですね」

その言い方が、いつもより少しだけゆっくりに感じた。

会話が途切れ、短い沈黙が流れた。

「なぁ美緒…花水木が動き始めたら…通うの大変じゃないか?」

私はカップの中で揺れるコーヒーを見ながら言った。

「…はい。少し遠いから…大変なときもあると思います」

美緒は両手で包むようにカップを持ち、視線を落としたまま答えた。

「それなら…俺の住んでる街に越してこないか?」

「でも…」

美緒は言葉を続けず、そのまま視線を落とした。

何かを考えているようだった。

「いや…無理にとは言わない。地元を離れたくないなら、それでいいんだ」

言いながら、自分でも少し逃げている気がした。

部屋の空気が、わずかに静まる。

「直人さん…それは私を心配する優しさですか?

それとも…私にそばにいて欲しいからですか…」

小さな声だったが、はっきりとした問いだった。

私はすぐには答えられなかった。

言うべきかどうか、ほんの一瞬だけ迷う。

カップに残ったコーヒーに視線を落とし、それから口を開いた。

「心配なのは本当だ」

そこで言葉が止まる。

続ければ、何かが変わる気がした。

それでも――

「…俺のわがままだけど、美緒にそばにいて欲しい」

言い切ると、部屋はまた静かになった。

美緒はしばらく何も言わなかった。

視線を落としたまま、小さく息を整える。

それからゆっくりと顔を上げた。

「分かりました…」

少しだけ間を置いて、言葉を続ける。

「私、前にも言ったじゃないですか。

私の夢は…直人さんのそばにいることです」

そう言って微笑んだ。

その表情は穏やかだったが、どこか揺れているようにも見えた。

私は何も言わずに、美緒を抱き寄せた。

腕の中で、美緒の身体がわずかに震えているのが分かった。

私はそのまま、しばらく離さなかった。

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