112話「決断」

美緒の部屋を出たあとも、指先に残る温もりが消えなかった。

エレベーターに乗り込み、ゆっくりと閉まっていく扉をぼんやりと眺める。

さっきまでの甘い空気が、まだ身体に残っている気がした。

ポケットの中で携帯が鳴った。

画面を見ると、弘からだった。

「もしもし、どうした?」

「兄貴、お疲れっす。あのっすね、同業の奴らから届出制のことで情報が入ってきたんすよ」

弘は少し低いトーンで話した。

「そうか、どんな情報なんだ?」

「電話じゃあれなんで……兄貴、いまどこっすか?」

「美緒のマンション出たところだから、そっちに着いたら連絡する」

「了解っす。連絡待ってるっす」

弘はどこか不安げな様子だった。

外に出ると、さっきと同じ青空が広がっていた。

ふと振り返りマンションを見上げると、美緒がいた。

微笑みを浮かべ、手を振っている。

——花水木。

頭の中にその言葉が浮かぶ。

私は手を上げて応え、そのまま車に乗り込んだ。

地元に戻り、弘に連絡を入れて待ち合わせをした。

駅前の駐車場に車を停めると、すぐに弘の車も入ってきた。

弘は私の車の隣に停め、急いだ様子で缶コーヒーを二本持ち、助手席に乗り込みながら言った。

「お疲れっす。今日、他の店の奴が言ってたんすけど、届出しないって店が多いみたいなんすよ」

弘は不安げな顔で早口に喋る。

「どうしてだ?」

「他の店の奴らが言うには、今まで違法だって言ってパクったりしてたのに、急に届出制にするとか、おかしいって言ってるんすよ」

弘は眉間に皺を寄せて言った。

弘が聞いてきた話では、今まで違法だからと摘発していたのに、急に届出制にするのはおかしい。

事務所の所在地や名義人を明確に把握して、摘発しやすくするのではないか。

他店の者は疑心暗鬼になっているとのことだった。

私は弘の話に口を挟まず、黙って最後まで聞いていた。

「兄貴、どうします?やっぱこのままでいったほうがいいんじゃないすか?」

私は少し考えてから言った。

「うちは届出するぞ」

「えっ、するんすか!?」

弘は目を見開いて私を見た。

「弘、よく考えてみろ。届出制を嫌がってるのは、昔からのやり方でやってる奴らだ。

まあ言えば、ラブステーションの黒岩みたいな奴だ」

私は少し間を置いた。

「ああいった連中は、女の子を力で押さえつけたりしてるだろ。

だから届出制になると、今まで通りにはいかなくなる。

警察に駆け込む子も出てくるだろう。

要は、うちみたいに新しいシステムや体制を嫌うんだよ」

「なるほどっすね!」

弘は大きく何度も頷いた。

「どっちにしろ真っ白な仕事じゃない。

限りなく黒に近いグレーな仕事だ。

でも最低限のことを守っていれば大丈夫だ」

「さすが兄貴っすね!」

いつもの弘に戻った口調だった。

私は缶コーヒーを開け、一口飲んだ。

美緒が淹れた、チョコの香りがしたコーヒー。

チョコの味がした、美緒の唇。

ほんのりと甘さが残っていた。

——花水木。

その言葉が、静かに頭に浮かんだ。

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