美緒の部屋を出たあとも、指先に残る温もりが消えなかった。
エレベーターに乗り込み、ゆっくりと閉まっていく扉をぼんやりと眺める。
さっきまでの甘い空気が、まだ身体に残っている気がした。
ポケットの中で携帯が鳴った。
画面を見ると、弘からだった。
「もしもし、どうした?」
「兄貴、お疲れっす。あのっすね、同業の奴らから届出制のことで情報が入ってきたんすよ」
弘は少し低いトーンで話した。
「そうか、どんな情報なんだ?」
「電話じゃあれなんで……兄貴、いまどこっすか?」
「美緒のマンション出たところだから、そっちに着いたら連絡する」
「了解っす。連絡待ってるっす」
弘はどこか不安げな様子だった。
外に出ると、さっきと同じ青空が広がっていた。
ふと振り返りマンションを見上げると、美緒がいた。
微笑みを浮かべ、手を振っている。
——花水木。
頭の中にその言葉が浮かぶ。
私は手を上げて応え、そのまま車に乗り込んだ。
地元に戻り、弘に連絡を入れて待ち合わせをした。
駅前の駐車場に車を停めると、すぐに弘の車も入ってきた。
弘は私の車の隣に停め、急いだ様子で缶コーヒーを二本持ち、助手席に乗り込みながら言った。
「お疲れっす。今日、他の店の奴が言ってたんすけど、届出しないって店が多いみたいなんすよ」
弘は不安げな顔で早口に喋る。
「どうしてだ?」
「他の店の奴らが言うには、今まで違法だって言ってパクったりしてたのに、急に届出制にするとか、おかしいって言ってるんすよ」
弘は眉間に皺を寄せて言った。
弘が聞いてきた話では、今まで違法だからと摘発していたのに、急に届出制にするのはおかしい。
事務所の所在地や名義人を明確に把握して、摘発しやすくするのではないか。
他店の者は疑心暗鬼になっているとのことだった。
私は弘の話に口を挟まず、黙って最後まで聞いていた。
「兄貴、どうします?やっぱこのままでいったほうがいいんじゃないすか?」
私は少し考えてから言った。
「うちは届出するぞ」
「えっ、するんすか!?」
弘は目を見開いて私を見た。
「弘、よく考えてみろ。届出制を嫌がってるのは、昔からのやり方でやってる奴らだ。
まあ言えば、ラブステーションの黒岩みたいな奴だ」
私は少し間を置いた。
「ああいった連中は、女の子を力で押さえつけたりしてるだろ。
だから届出制になると、今まで通りにはいかなくなる。
警察に駆け込む子も出てくるだろう。
要は、うちみたいに新しいシステムや体制を嫌うんだよ」
「なるほどっすね!」
弘は大きく何度も頷いた。
「どっちにしろ真っ白な仕事じゃない。
限りなく黒に近いグレーな仕事だ。
でも最低限のことを守っていれば大丈夫だ」
「さすが兄貴っすね!」
いつもの弘に戻った口調だった。
私は缶コーヒーを開け、一口飲んだ。
美緒が淹れた、チョコの香りがしたコーヒー。
チョコの味がした、美緒の唇。
ほんのりと甘さが残っていた。
——花水木。
その言葉が、静かに頭に浮かんだ。

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