111話「花水木」

美緒に一時間くらいで着くと連絡を入れ、マンションに向かって車を走らせていた。

青空が広がり、いわし雲が浮かんでいる。

空気が澄んで気持ちがよく、暑さが苦手な私にとっては過ごしやすい季節になってきた。

車から降りてマンションを見上げると、美緒がベランダから手を振っていた。

私は軽く手を上げて応える。

エレベーターを降り、廊下に出ると、美緒が部屋のドアを半分開けて待っていた。

部屋に入ると、いつもの少し甘く、落ち着くような美緒の部屋の匂いがした。

「コーヒー淹れますね」

美緒は微笑み、キッチンに向かった。

ソファーに腰を下ろすと、キッチンからカリカリと手挽きミルで豆を挽くいい音が聞こえてきた。

キッチンへ行くと、美緒がコーヒー豆を挽いている。

「いい音だな」

後ろから声をかけると、美緒は豆を挽きながら振り向いた。

「私もコーヒー好きになって、飲むなら本格的にと思って揃えたんです」

見ると、ドリッパーやサーバー、ドリップポットも並んでいた。

カリカリという音とともに、コーヒー豆のいい香りが漂ってくる。

私は、美緒が豆を挽いているのを見ながら言った。

「藤本のところの集金、美緒に任せようと思ってるんだが」

カリカリという音が止まり、美緒は振り向いた。

「はい、私でいいならやりたいです。……少しでも役に立ちたいから」

美緒は真剣だが、温かい眼差しで私を見た。

私は黙って頷いた。

ソファーに背を預け、ぼんやりしていると、コーヒーの良い香りが部屋に広がってきた。

美緒がカップを二つテーブルに置き、私の隣に座る。

「直人さん、飲んでみてください」

美緒は得意げに言った。

私は起き上がり、カップを手に取って口に近づけると、ほんのりと甘いチョコのような香りがした。

「うん、美味しいよ、美緒」

ほんのり甘いようなコクがあった。

「でしょ!絶対に直人さんの好みだと思ったもん」

美緒は満足げな笑みを浮かべた。

「これも弘から何か聞いたのか?」

「いえ、この前、直人さんの車に乗ったときにチョコの箱があったから」

「よく気づいたな」

二人で顔を見合わせて笑った。

私はコーヒーを一口飲み、またソファーに背を預け、天井を眺めながら言った。

「なあ、美緒。届出制になるとき、店の名前を変えようと思うんだけど、どんな名前がいいと思う?」

「えっ、私も一緒に考えていいんですか?」

美緒は一瞬、驚いたように言った。

「いいに決まってるだろう。美緒はスタッフなんだから」

「はい」

美緒は嬉しそうに頷き、少し考えているようだった。

「私、考えてたんです。月下美人って名前もいいと思うんですが、もし変えるなら、こんな名前がいいかなって」

「どんな名前なんだ?」

美緒は私を見て言った。

「“花水木”ってどうですか?」

少し間を置いて、続ける。

「永続性や華やかな恋って意味もあるんです」

「月下美人が夜で艶。花水木は昼で華やかさ」

私は起き上がって美緒を見た。

「花水木、いいな。この業界、どうしても暗い感じがあるから、明るいイメージがする」

美緒は嬉しそうに微笑んだ。

私はまたソファーに背を預け、「花水木」と呟きながら、美緒の手をそっと握った。

美緒は指を絡めて握り返す。

ほんの一瞬、言葉が途切れた。

二人の視線が重なり、自然と唇を合わせた。

甘いチョコの味がした。

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