110話「白い香り」

マンションのドアを開けると、早苗が玄関まで走ってきた。

「おかえりー!ねぇ、ちょっと来て」

そう言って、私の袖を軽く引く。

「どうした?」

靴を脱ぐ間もなく、そのままリビングへ引っ張られた。

ソファーに座ると、早苗もすぐ隣に腰を下ろす。

テーブルの上には、開いたノートとペン、それに辞書が並んでいた。

「この名前、いいと思わない?」

早苗はノートを差し出した。

そこには「茉莉花」と書かれていて、赤いペンで丸がつけられている。

「“まつりか”って読むの。ジャスミンの花」

嬉しそうに、少しだけ声を弾ませる。

「白くて、いい香りでさ」

そう言って、ノートを胸に抱えた。

「店の名前、“茉莉花”にしようと思うの」

「うん、すごくいいと思うよ」

「でしょ?それに月下美人は夜の花で、繋がりもあるし」

早苗は楽しそうに笑った。

「あ、そうだ。里奈って覚えてる?」

一瞬考えていると、早苗が肩を軽く叩いた。

「ほら、プールバーで働いてた高橋里奈。一緒に行ったじゃない」

「ああ、あの里奈ちゃんか。懐かしいな」

「この前会ってさ。話したら、手伝いたいって」

早苗はテーブルの上を片付けながら言った。

「今、あなたと一緒にいるって言ったら、すごく会いたがってたよ。仕事の話もあるし、今度三人でご飯行こうよ」

「そうだな、久しぶりに会ってみたいな」

「うん、絶対喜ぶと思う」

そう言って立ち上がると、キッチンの方へ向かう。

「あ、コーヒー淹れてくるね」

一人になったリビングで、私はさっきの言葉を思い出していた。

“茉莉花”。

白くて、やわらかい香り。

そのイメージと一緒に、

美緒のあの笑顔が、ふっと浮かんだ。

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