深夜に弘から電話があった日以降、私は“裏の顔”というものを考えるようになった。
表の顔は、
「LINK CORPORATION 村上直人」だ。
だが、明確な裏の顔というものはない。
強いて言うなら、恵美の経営する月下美人での店長、あるいは責任者という肩書きになるのだろう。
それ以来、“裏の顔”という言葉が頭の片隅に残っていた。
ある日の午後、リビングでコーヒーを飲んでいると、携帯電話が鳴った。
見ると、由美さんからだった。
「はい、直人です。お久しぶりです」
「こんにちは、由美です。
先日はお店まで来ていただき、ありがとうございました」
由美さんは、いつもの落ち着いた喋り方だったが、どこか少し柔らかくなったように感じた。
「今日、主人から手紙が届き、直人さんにすぐに伝えるようにとの内容だったので、その部分だけ読みますね。
“俺が娑婆に戻るまで、直人にはどことも深い付き合いはするな。そういった人間には、柴崎祐介の舎弟だと名乗れと至急伝えてくれ”」
要件の部分だけを、抑揚のない声で淡々と読み上げた。
柴崎祐介――陣さんの本名だ。
「分かりました」
私は、それだけを返した。
今度、私の住む街に用事があるとのことで、そのとき早苗と三人で食事をしたい。
早苗によろしく伝えてほしい、とのことだった。
電話を切り、ソファーにもたれかかる。
携帯電話を持ったまま、ぼんやりと考えていた。
柴崎祐介の舎弟……。
舎弟――。
「ねぇ、電話、由美さんからでしょ?」
隣に座った早苗が、そう聞いてきた。
「ああ、由美さんからだったよ。今度、用事があってこっちに出てくるから、早苗と三人で食事しようって言ってたよ」
なぜか、陣さんの件は言わなかった。
「本当に? また由美さんに会いたいなって思ってたんだ! 楽しみー」
早苗は、BAR渚に行ってから由美さんのことを気に入ったらしく、会えるのを素直に喜んでいた。
「コーヒー、置いとくね。夕飯の材料で買い忘れたものがあるから、ちょっと買ってくるね。今日はバターチキンカレーだよ!」
そう言いながら、テーブルにアイスコーヒーを置くと、早苗は買い物に出かけた。
ひとり、静かなリビング。
私はまた、“舎弟”という言葉を考えていた。
陣さんは、私をヤクザにしようとしているのか。
私は、ヤクザになりたいわけではない。
だが、普通の仕事がしたいとも思わないし、務まるとも思えなかった。
今の生活、生き方に満足している。
刺青まで彫っておいて矛盾しているが、私が思う“裏の顔”は、ヤクザではないと思った。
堅気でも、ヤクザでもない。
中途半端な立ち位置だな、と。
気づけば、アイスコーヒーの氷はすっかり溶けていた。
グラスの中では、透明な水と黒いコーヒーが、くっきりと分かれていた。

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