96話「混ざらないもの」

深夜に弘から電話があった日以降、私は“裏の顔”というものを考えるようになった。

表の顔は、

「LINK CORPORATION 村上直人」だ。

だが、明確な裏の顔というものはない。

強いて言うなら、恵美の経営する月下美人での店長、あるいは責任者という肩書きになるのだろう。

それ以来、“裏の顔”という言葉が頭の片隅に残っていた。

ある日の午後、リビングでコーヒーを飲んでいると、携帯電話が鳴った。

見ると、由美さんからだった。

「はい、直人です。お久しぶりです」

「こんにちは、由美です。

先日はお店まで来ていただき、ありがとうございました」

由美さんは、いつもの落ち着いた喋り方だったが、どこか少し柔らかくなったように感じた。

「今日、主人から手紙が届き、直人さんにすぐに伝えるようにとの内容だったので、その部分だけ読みますね。

“俺が娑婆に戻るまで、直人にはどことも深い付き合いはするな。そういった人間には、柴崎祐介の舎弟だと名乗れと至急伝えてくれ”」

要件の部分だけを、抑揚のない声で淡々と読み上げた。

柴崎祐介――陣さんの本名だ。

「分かりました」

私は、それだけを返した。

今度、私の住む街に用事があるとのことで、そのとき早苗と三人で食事をしたい。

早苗によろしく伝えてほしい、とのことだった。

電話を切り、ソファーにもたれかかる。

携帯電話を持ったまま、ぼんやりと考えていた。

柴崎祐介の舎弟……。

舎弟――。

「ねぇ、電話、由美さんからでしょ?」

隣に座った早苗が、そう聞いてきた。

「ああ、由美さんからだったよ。今度、用事があってこっちに出てくるから、早苗と三人で食事しようって言ってたよ」

なぜか、陣さんの件は言わなかった。

「本当に? また由美さんに会いたいなって思ってたんだ! 楽しみー」

早苗は、BAR渚に行ってから由美さんのことを気に入ったらしく、会えるのを素直に喜んでいた。

「コーヒー、置いとくね。夕飯の材料で買い忘れたものがあるから、ちょっと買ってくるね。今日はバターチキンカレーだよ!」

そう言いながら、テーブルにアイスコーヒーを置くと、早苗は買い物に出かけた。

ひとり、静かなリビング。

私はまた、“舎弟”という言葉を考えていた。

陣さんは、私をヤクザにしようとしているのか。

私は、ヤクザになりたいわけではない。

だが、普通の仕事がしたいとも思わないし、務まるとも思えなかった。

今の生活、生き方に満足している。

刺青まで彫っておいて矛盾しているが、私が思う“裏の顔”は、ヤクザではないと思った。

堅気でも、ヤクザでもない。

中途半端な立ち位置だな、と。

気づけば、アイスコーヒーの氷はすっかり溶けていた。

グラスの中では、透明な水と黒いコーヒーが、くっきりと分かれていた。

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