92話「慣れていく現場」

「兄貴、俺は兄貴の指示通りにすればいいんすよね」

弘はそう言い、視線を上に向けながら考えている。

「うん、昨日話した通りだ。お前は俺が指示したことをやればいい」

「わかりました、了解っす」

弘は少し安心したのか、私を見てにっこりと笑った。

江崎さんの店へ向かう前、車の中で最終の打ち合わせをしていた。

「藤乃屋の経営者って江崎って名前だったんすね。

しかし兄貴が藤乃屋と繋がりあったなんて意外っす。藤乃屋は置き屋だけど、若い子揃えてるって評判いいっすもんね」

弘は腕を組んで頷いた。

「お前、置き屋のことまで詳しいな」

「前に言ったじゃないっすか。この街の風俗業界のこと、少しは知ってるつもりなんで。任せてくださいよ」

誇らしげな顔でそう言った。

「それじゃ、そろそろ行くか」

私は車の時計を見て言った。

「藤乃屋っすね。場所は分かってるっす」

弘はハンドルを握り、車を走らせた。

車内には、江崎さんと女の子たちに買った大判焼きの甘い匂いが漂っている。

私は手に抱えた、六百五十万の入った紙袋の重さを確かめた。

藤乃屋には、約束の十五分ほど前に着いた。

店の前に立ち、改めて藤乃屋を眺める。

紫色の看板に白で“藤乃屋”と描かれており、控えめにひっそりと佇んでいた。

夜になり灯りが入れば、昼間とは違う妖艶な雰囲気を醸し出すのだろう。

玄関を開けると、いつものブザーが鳴る。

だが今日は、いつもの静けさはなかった。

女の子たちの話し声や笑い声が、奥から聞こえてくる。

「すいませーん」

声をかけると、

「村上さんかい?上がっておくれ」

奥から江崎さんの声がした。

「おい、行くぞ」

「うっす」

弘は少し緊張しているようだった。

「失礼します」

そう言い、弘と廊下の奥の部屋へ向かう。

途中、女の子たちの待機部屋の前を通り過ぎた。

襖越しでも、複数人いる気配がはっきりと伝わってくる。

部屋に入り、弘を紹介した。

「自分のところにいる石田弘です。これから毎日の集金に伺うので、よろしくお願いします」

「石田弘です、よろしくお願いします!」

弘は気をつけの姿勢で頭を下げた。

「村上さんとこの弘君ね。分かったから、中に入って座りな」

江崎さんは、廊下に立ったままの弘に手招きしながら言った。

私と弘が腰を下ろすと、

「ちょっと来ておくれ」

その声で、いつものおばさんが部屋に入ってきた。

江崎さんは、おばさんに女の子たちを順に連れてくるよう指示した。

眼鏡をかけ、借用書の束を広げて並べ始める。

私は弘に目配せし、バッグから借用書を出すよう合図した。

そして現金の入った紙袋を弘に渡した。

ほどなくして、女の子が二人部屋に入ってきた。

見た感じ、二人とも二十代前半だった。

そのうちの一人が、弘を指差して声を上げる。

「あっ!弘さんじゃないですか!」

「えっ!?お前、藤乃屋さんで働いてたのか。なるほどな」

「こういうことなんだ、弘君」

二人は納得したように顔を見合わせ、クスッと笑った。

江崎さんと私は、思わず顔を見合わせた。

「なんだ、あんた達知り合いなのか。世の中狭いもんだね」

江崎さんはそう言って笑った。

その一件で、弘の顔から緊張の色が消えていた。

江崎さんが並べた借用書の中から名前を確認し、一枚ずつ取り出して本人に渡す。

弘がその金額をこちらの借用書に書かせ、署名と押印をもらう。

記入し終えた借用書を私に見せて確認し、その後、江崎さんへ現金を手渡す。

その繰り返しがしばらく続き、十二人分すべて終わったのは、一時間ほど後だった。

私の紙袋は空になり、江崎さんの前には、十万円ごとに束ねられた札束が乱雑に積まれていた。

私はその光景を前にして、以前と違う感覚になっている自分がいた。

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