86話「表の顔」

雨の夜の出来事以降、恵美のマンションに時々行くようになっていた。

特別な用事はないが、お互いに何か口実をつくり、会うようになっていた。

その部屋で会うとき、恵美は“恵美さん”ではなく、恵美の顔になっていた。

「そう言えば、江崎さんの件はどうなったの?」

恵美が思い出したように聞いた。

「あっ、江崎さんの件、まだ詳しく話してなかったね……」

言いかけたところで、恵美がふっと笑った。

「ん?」

「だってあなた、私に敬語を使ったり、普通に話したりするから」

恵美は楽しそうに言う。

「そんな急に変われないよ」

「ごめん、ごめん。そうよね。でもこの部屋……いや、二人のときは恵美でいいのよ」

私は声に出さず頷いた。

「それで、江崎さんの件は?」

私は佐藤さんの五百万の話から順番に説明し、

江崎さんに金融屋と間違えられたこと、

そして借り換えの話まで伝えた。

恵美は黙って話を聞きながら、静かに考え込んでいた。

やがて顔を上げ、私を真っ直ぐ見た。

「ねぇ、あなた金融やってみなさいよ。」

「えっ、俺が?」

胸の奥が一瞬ざわつく。

「そう、あなたが。」

恵美は続けた。

「江崎さんが借り換えてくれるって言うなら、かなり良い話よ。

新規で営業に行っても、間に合ってるって門前払いされるのが普通なの。

でもあなたにそんなことを言ったということは、気に入られている証拠よ。」

私はすぐには返事ができなかった。

金融。

まさか自分の人生に、そんな言葉が入ってくるとは思ってもいなかった。

「良い話かもしれないが、金融なんて大きな金がないとできないだろ。そんな簡単じゃない。」

少し苦笑しながら言うと、恵美は私の前に座り直した。

そして、静かに私の目を見つめ、膝に手を置いた。

「お金は私が用意する。

ちゃんと登録して始めればいいの。

建前でも表の顔があれば、それだけで意味がある。

あなたには、一つ表の立場が必要よ。」

私が金融屋。

江崎さんの勘違いが、思いもよらない方向へと動き始めていた。

私は黙ったまま、恵美の目を見つめ返した。

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