85話「BAR 渚」

夕方前に街を出た。

リビングのテーブルに置きっぱなしにしていた「BAR渚」の名刺が目に留まった。

名刺を手に取り、ソファーに腰を下ろした。

しばらく、その名刺を眺めていた。

海かぁ。

なにか急に海が見たくなった。

「早苗、今から海に行こうか!」

キッチンにいる早苗に声をかけた。

「えっ、本当に!? 行きたい! 行きたい!」

早苗は駆け寄ってきて、私に抱きついた。

特に急ぐ用事でもない、のんびりしたドライブだった。

海沿いの道に出る頃には、空の色が少しずつ変わり始めていた。

「海、久しぶりだね」

早苗が窓の外を見ながら言った。

「そうだな」

しばらく車を走らせていると、早苗が急に声を上げた。

「見て、見て!」

海の向こうで、夕陽がゆっくり沈み始めていた。

私は車を路肩に寄せて止めた。

二人で車を降りて、海の方へ歩く。

防波堤の上に立つと、波の音だけが聞こえていた。

沈みかけた夕陽が、海をオレンジ色に染めている。

「きれいだね」

早苗が小さく言った。

「こういうの、久しぶりだな」

「ほんとだね」

早苗が手を握ってきた。

私は早苗の小さな手を優しく握り返した。

二人で並んで、しばらく黙って夕陽を眺めていた。

やがて夕陽は、ゆっくりと海の向こうへ沈んでいった。

空には、少しだけ夜の色が混ざり始めていた。

車に戻ると、私はふと思い出した。

「この先に、由美さんの店がある」

早苗がこちらを見る。

「あの人の?」

「ああ」

「行ってみようか?」

「うん、私も由美さんって人に会ってみたい」

早苗が何か手土産を買わなきゃと言うので、通りにあった洋菓子店でスウィーツを買った。

少し走ると、海辺の通りにぽつんと一軒だけ店が見えてきた。

古い木造の建物だった。

入口の上には、年季の入った古いネオンの看板。

ぼんやりとしたオレンジ色の光で

「BAR 渚」

と浮かび上がっている。

店の前に車を止め、二人で中に入った。

扉を開けると、外の海の音とは違う静かな空気が流れていた。

店内はカウンターだけの小さな店だった。

席は八つくらいだろうか。

木目の年季の入った茶色いカウンター。

静かな音楽が流れている。

カウンターの端には、先客のおじさんが一人で飲んでいた。

カウンターの奥から、由美さんが顔を上げた。

「いらっしゃいませ」

相変わらず、落ち着いた声だった。

スラッとした綺麗な女性で、水商売っぽさはあまりない。

どこか影のある雰囲気の人だ。

「久しぶりですね」

由美さんが言った。

「近くまで来たので」

私はそう言って、隣にいる早苗を見た。

「早苗です」

早苗が笑顔で言った。

「早苗って言います」

「由美です」

由美さんは丁寧に頭を下げた。

それから三人で、カウンター越しに話をした。

早苗は興味津々だった。

「このお店、いいですね」

「ありがとうございます」

「昔からあるんですか?」

「三十年くらい前からあって、前の方から名前ごと引き継いだんです」

「へぇ」

早苗は楽しそうに話していた。

それにつられるように、由美さんもよく笑っていた。

その様子を見ながら、私はふと思った。

この人は、この街で生まれ育って

ずっとここにいると言っていた。

なのに、どこで陣さんと知り合ったのだろう。

ふとそんな疑問が浮かぶ。

けれど、それを聞くことはできなかった。

陣さんが言っていた。

由美のことは、人に話すな。

そのときの真剣な目を思い出す。

あまり踏み込んではいけない。

そんな気がした。

しばらくして、次の面会の日の話になった。

「早苗も行っていいかな?」

早苗が言った。

由美さんは少し笑った。

「刑務所ですから、何もないですよ」

それでも、三人で行くことになった。

早苗が持ってきたお土産のスウィーツを渡すと、由美さんは嬉しそうに笑った。

店を出ると、夜の海風が頬に当たった。

海の向こうには、街の夜景が広がっていた。

二人でしばらく、その景色を眺めていた。

潮風が、心地よかった。

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