239話「少しずつ線になる」

シゲさんとの話も終わり、客も増え賑わってきたので店を出ることにした。

「また何かあれば、いつでも連絡しろよ」

店の前まで見送りに来てくれたシゲさんは、いつものように豪快な笑顔を浮かべていた。

「ありがとうございます。また相談させてもらいます」

私は頭を下げ、美緒と一緒にラ・カシーナを後にした。

マンションへ戻る車の中でも、シゲさんの話題は尽きなかった。

「シゲさん、本当にリトのこと信頼してるんだね」

助手席の美緒が穏やかに言う。

「うん。あそこまで言い切ってもらえると安心するよ」

「リトも喜ぶと思う」

私は小さく頷いた。

シゲさんの言葉は、これから進もうとしている道への大きな後押しになっていた。

翌朝、いつものように美緒に優しく起こされる。

朝食を済ませ、二人でソファーに座って今日の予定を話した。

「今日は午後から花水木の女の子の面接が入ってるの」

美緒はどこか嬉しそうに微笑んだ。

「そうなんだ。いい子だといいな」

「うん。楽しみ」

美緒とマンションを出たあと、私は恵美に連絡してマンションへ向かった。

エントランスを抜け、慣れた手つきで鍵を開ける。

ドアを開けた瞬間、ふわりと恵美の香りが漂った。

「早かったわね」

リビングへ入ると、ちょうどコーヒーを淹れ終えた恵美が、カップを二つ持ってキッチンから出てきた。

「うん、思ったより車が少なくて」

そう言いながら向かいのソファーへ腰を下ろし、バッグから伝票や領収書の束を取り出す。

すると恵美は苦笑しながら首を振った。

「もう細々したものはいいわよ」

「でも、お金のことはきちんとしないと」

私がそう言うと、恵美は優しく笑う。

「あなたのこと信用してるし、そんな関係でもないでしょ」

私は苦笑しながらも、伝票の束と売上金の入った封筒を差し出した。

恵美は封筒を手に取り、少し驚いたように私を見る。

「これ、いつもよりだいぶ多いんじゃない?」

「うん。届出をしてからネットを主体にしたら、思ったより反響が良くて売上も伸びてるんだ」

「すごいわね。ネット中心に切り替えたことで、今までとは違う客層も増えてるみたいだし」

恵美は感心したように頷いた。

「花水木と茉莉花の話はよく耳にするわよ。同業者はあなたのやり方が気になってるみたい」

その言葉に少し照れくさくなり、私はコーヒーを一口飲んだ。

すると恵美が何かを思い出したように口を開く。

「あっ、そうそう。柴崎君のことなんだけどね」

その表情は先ほどまでとは違い、少し真剣だった。

「今は正式にどこかの組に属してるわけじゃないみたいなの。もともとはある組にいたらしいんだけど、その組長さんがある事件で長期服役になって、組自体が自然消滅したらしいのよ」

私は黙って耳を傾ける。

そんな話は、陣さんから一度も聞いたことがなかった。

恵美はコーヒーを一口飲み、続けた。

「それでね……ちょっと良からぬ話も聞いたの」

「良からぬ話?」

「うん。ヤクザの世界で絶対にしちゃいけないことの一つに、人の女に手を出さないっていう暗黙のルールがあるの」

私は少し考えた。

「……つまり、人の女に手を出したって噂なのか?」

恵美はゆっくり頷く。

「そこまでは断言できないわ。あくまで噂だから。でも、そういう話が出ているのは事実みたい」

その瞬間、私の頭に由美さんの顔が浮かんだ。

あの日、陣さんが真剣な表情で口止めしたことも。

「それじゃ……同じ組の組員の彼女とかに手を出した可能性もあるってこと?」

恵美は小さく肩をすくめた。

「そこまでは分からないわ。でも、火のないところに煙は立たないとも言うでしょ」

私は静かに頷いた。

点と点が、少しずつ線になっていくような感覚があった。

「何か心当たりあるの?」

恵美が私の顔を覗き込む。

私は一瞬迷った。

しかし、由美さんのことはまだ話すべきではない。

そう思い、小さく首を振った。

「いや、ないよ」

恵美は私の様子を見つめたあと、静かに微笑んだ。

「また何か分かったら言うわね」

「ありがとう」

マンションを出たあとも、私の頭から陣さんの真剣な表情は離れなかった。

由美さん――。

あの日、陣さんがあれほど口止めした理由が、少しだけ見えた気がした。

コメント