ドアの鍵を開けると、軽い金属音が静かに響いた。
「ここだよ」
そう言って扉を開ける。
美緒は一歩だけ間を置いてから、ゆっくりと中に入った。
昼の光がそのまま差し込む室内を、静かに見渡している。
何もない空間。
けれど、その視線はどこか丁寧だった。
リビングまで進み、足を止める。
窓の外に目を向けたまま、しばらく動かない。
イチョウ並木が、風に揺れていた。
「……いいね」
小さく、そう言った。
振り返った美緒は、少しだけ笑っていた。
「このベランダ、小さなテーブルと椅子を二つ置けますね」
部屋の中に、さっきまでなかった空気が少しずつ満ちていく気がした。
美緒はゆっくりと歩き出し、リビングをぐるりと見て回る。
何もない床を確かめるように、静かに足を進めていた。
「ここ、ソファ置けそうですね」
窓際を見ながら、ぽつりと言う。
「ああ、あそこがいいかもな」
私が指さすと、美緒はその場所に立って少しだけ考えるように視線を動かした。
「じゃあ、こっちにテーブルかな」
自然と、そんな言葉が続く。
まだ何もないはずの部屋に、少しずつ形が浮かんでいく。
「カーテンも必要だな」
「うん……明るいのがいいですね」
美緒はそう言って、もう一度窓の外を見た。
揺れるイチョウの葉に目を細めている。
「この景色、好き」
小さく、そう言った。
その横顔を見ていると、この部屋を選んでよかったと思えた。
「すぐ慣れるよ」
何気なくそう言うと、美緒は少し視線を落とした。
「……慣れていいのかな」
その言葉は小さかったが、はっきりと聞こえた。
一瞬だけ間が空く。
「いいだろ」
短くそう返す。
それ以上は何も付け足さなかった。
美緒は私の方を見て、それからふっと笑った。
「そっか」
その一言で、どこか張っていたものがほどけたように見えた。
窓から入る光が、さっきよりも柔らかく感じる。
何もなかったはずの部屋に、少しずつ色がついていく。
気づけば、美緒はさっき私が立っていた場所に立ち、同じように外を眺めていた。
その隣に並ぶ。
言葉はなかった。
ただ、同じ景色を見ていた。
それだけで、この場所はもう空っぽではなかった。
ポケットの中で、携帯が小さく震えた。
一瞬だけ視線を落とす。
画面には、弘の名前が表示されていた。
「もしもし」
「兄貴、いま大丈夫っすか?」
「ああ」
「美咲ちゃんのことなんすけど、あの子、兄貴に会って挨拶したいって言ってるんすよ」
少しだけ、間があく。
「そうか」
窓の外に目を向ける。
さっきまでと同じ景色のはずなのに、少しだけ見え方が変わっていた。
「時間つくってもらっていいっすか?」
「分かった、一時間後にいつものカフェで待ち合わせよう」
「了解っす、それじゃ美咲ちゃんと行くっすね」
短いやり取りで電話を切る。
携帯をポケットに戻した。
美緒は、窓の外を静かに眺めている。
その姿に、少しだけ安心する。
美緒が、そっと身体を寄せて腕を絡めてきた。
窓の外は木枯らしが吹き、イチョウの葉が舞っている。
何もない部屋の中で、美緒の温もりだけが確かだった。
その温もりを確かめるように、二人でそのまま窓の外をしばらく眺めていた。

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