リトは時計に目をやると、小さく「あっ」と声を漏らした。
「ナオト、ごめんネ。仕事の時間ヨ」
私は腕時計を確認した。
「もうそんな時間か」
リトは慌ててバッグを手に取る。
「MAHALまで送ってくれる?」
「ああ、もちろん」
私たちは席を立ち、店をあとにした。
車の中では、さっきまで話していたDoor-to-Doorの話はしなかった。
リトも窓の外を眺めながら、何かを考えているようだった。
やがてMAHALの看板が見えてくる。
私は車をMAHALのビルの前に停めた。
「仕事が終わる頃、迎えに来るよ。また後で話そう」
そう言うと、リトは嬉しそうに笑った。
「ありがとうネ」
そしてドアを開ける。
「仕事終わったら連絡するヨ」
「ああ。待ってる」
リトは軽く手を振ると、ビルの中へ入っていった。
その姿が見えなくなるまで見送り、私はアクセルを踏んだ。
しばらく沈黙が続いたあと、美緒がぽつりと口を開く。
「リトがあんな真剣な顔するの初めて見たね」
「ああ」
私は短く頷いた。
「それだけ本気なんだろうな」
美緒も静かに頷いた。
マンションへ戻ると、美緒はそのままキッチンへ向かった。
「コーヒー淹れるね」
「ああ」
私はソファーに深く腰を下ろし、体を預けた。
頭の中には、さっきのリトの言葉が何度も浮かんでくる。
フィリピンでも仕事がほしい。
Door-to-Doorという仕事自体は悪くない。
頭の中で、リトが話していた仕組みをもう一度組み立ててみる。
日本で依頼を受けるのはリト。
フィリピンでは家族がお金を届ける。
仕組みだけを考えれば、十分に成り立つように思えた。
だが、どうしても胸に引っかかるものがあった。
リトが相手にするのは、MAHALのタレントたちや知り合いのフィリピン人たちだ。
この街でのリトの人望は厚い。
誰からも好かれ、信用されている。
だから最初はうまくいくだろう。
だが、回数を重ねるうちに、
『リトが私たちから手数料を取っている』
そんな見方をする人が現れないとは限らない。
お金が絡めば、人の気持ちは思わぬ方向へ変わることがある。
そして一度失った信用は、簡単には戻らない。
「はい、コーヒー」
美緒の声で我に返った。
見ると、美緒が湯気の立つカップを差し出している。
「ありがとう」
受け取ると、美緒は私の隣に腰を下ろした。
「さっきのリトのこと、考えてたんでしょ?」
「ああ」
私はコーヒーを一口飲み、自分が考えていたことを美緒に話した。
美緒はカップを両手で包み込みながら、最後まで黙って聞いていた。
話し終えると、私は美緒を見る。
「どう思う?」
美緒は小さく頷いた。
「うん……直人さんの言う通りだと思う」
私は黙って続きを待つ。
「リトって、みんなから慕われてるでしょう?」
「ああ」
「だからこそ、直接お金が絡む仕事は難しい気がするの」
美緒は静かに続けた。
「身近な人ほど、お金でこじれることってあると思うんだ」
私は黙って耳を傾ける。
「仲がいいからこそ、期待も大きくなるし、ちょっとしたことで気持ちがすれ違うこともあると思う」
私はゆっくり頷いた。
やはり、美緒も同じことを感じていたのか。
私はカップの中のコーヒーを見つめながら、今日シゲさんから聞いた話を思い返していた。
海外のプロモーター。エージェント。
現地との信頼関係。
人と人を繋ぐ仕事。
その瞬間、一つの考えが頭に浮かんだ。
「……エージェント」
思わず声に出ていた。
美緒が不思議そうな顔で私を見る。
私はゆっくりと顔を上げた。
「Door-to-Doorじゃない」
「リトに向いてるのは……エージェントの仕事かもしれない」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥に引っかかっていたものが少しだけほどけた気がした。
リトには、この街で築いてきた信用がある。
フィリピンには、力になってくれる家族がいる。
人と人を繋ぐ仕事なら、その二つを生かせるかもしれない。
私はコーヒーを一口飲み、静かにカップをテーブルへ置いた。
仕事を終えたリトが戻ってきたら、この考えを話してみよう。
そんなことを考えながら、私は静かに窓の外へ目を向けた。

コメント