32話「小さな紙に託されたもの」

いつもと何も変わらない。

ゆっくりと時間だけが流れていく部屋。

ふと横を見ると、いつものように少し下を向いて座っている井原君がいる。

何を考えているのかは分からない。表情も変わらない。

けれどその横顔には、彼が生きてきた人生の重みのようなものが滲んでいた。

自分とはまったく違う人生を歩んできたはずなのに、なぜか惹かれるものを感じていた。

ある日、井原君がノートに何かを書き、そっと私に差し出した。

そこには女性の名前と住所、電話番号が書かれていた。

井原君は私をじっと見て言った。

「婆さんの電話番号と住所です。懲役に行ったら、身分帳に登録できるのは身内だけなんで。身分帳に登録している者しか、手紙の発信も受信も面会もできません。だから、どこの刑務所に行ったか、婆さんに聞けば分かります」

私は答えた。

「分かりました。お婆ちゃんには、私の存在だけ伝えておいてください」

普通なら、こういう場所で知り合った人間に、たとえ親しくなったとしても身内の情報を話すことはまずない。まして住所や電話番号まで。

井原君は詳しいことは何も言わない。

私のことも何も聞かない。

それでも私は、この小さな紙に込められた井原君の気持ちを理解した。

私はその小さな紙に込められた想いを受け取った。

拘置所の中で、私は初めて、誰かに必要とされているような気がした。

コメント

タイトルとURLをコピーしました