ある雨の夜、私は恵美さんのマンションに向かった。
月に一度の売上報告や、店の近況を話すためだ。
インターホン越しに恵美さんの声が響く。
「そのまま上がってきて。鍵は開いてるから」
静かな室内に入ると、恵美さんはワイングラスを片手に、リビングのソファーに座っていた。
「あなたはコーヒーでいいのよね」
恵美さんはワイングラスをテーブルに置き、キッチンでコーヒーを淹れ始めた。
部屋の中には、コーヒーを淹れる音と、窓にあたる雨音だけが響いていた。
「月下美人、順調そうね。最近ちらほらと噂を耳にするわよ」
恵美さんは私の前にコーヒーを置きながら言った。
「そうですか。良い噂だといいんですが、悪い方に目立ち始めてないですか?」
私はテーブルの上に広げていた領収書の束を整理しながら言った。
「どの業界も同じだけど、新しいものが出てくると良くも悪くも注目されるものよ。
でも、この世界は裏の人間ばかり。足をすくわれないように気を付けなさいよ」
私はこの間の、小指のない男と派手な女性の顔を思い出した。
あのときは運よく丸く収まった形になったが、ひとつ間違えていたら、全く違う結果になっていたかもしれない。
この業界、そんな情報はすぐに知れ渡る。
一度そういう弱みを見せれば、ハイエナのように次から次へとやってくる連中ばかりだ。
伝票を整理しながら、そんなことを考えていた。
「ねぇ」
私の視界を遮るように、恵美さんの手がひらりと振られた。
我に返る。
「あなた、刺青仕上がったんでしょ。お任せの鯉。
彫り師の先生が、良い出来だって言ってたわよ」
「見てみますか?」
私は無意識に口にしていた。
「……うん」
恵美さんは、どこか熱を帯びた目をしていた。
私は立ち上がり、恵美さんにゆっくり背を向け、シャツを脱いだ。
恵美さんがそっと手を伸ばし、背中に触れる。
その瞬間、昔付き合っていた頃の記憶がふわりと蘇り、二人の間に微妙で妖しい空気が漂った。
「……ほんとに……きれい」
恵美さんの声は柔らかく、どこか熱を帯びている。
恵美さんは、そっと優しく私の背中に抱きついた。
恵美さんとは、はっきりとした別れはなかった。
私が店を辞めた後、自然消滅だった。
嫌いになった訳ではない。
ただ、何となく流れに任せただけだった。
微妙な沈黙と、言葉にできない感情の揺れが部屋に漂う。
内心では、その空気に身を委ねそうになるのを抑えていた。
「あなたが、突然店を辞めたとき……私……」
恵美さんの消え入りそうな声が、背中越しに聞こえた。
私は恵美さんに向き直り、抱きしめた。
恵美さんは私に身を委ねるように抱きついてくる。
私はぎゅっと、力強く抱きしめた。
「もっと抱きしめて……もっと……もっと」
時間が止まったかのように、二人は抱き合っていた。
部屋の中には、激しくなった雨音だけが響いている。
私は恵美さんの頬を両手で包み込み、顔を見た。
付き合っていた頃──
私が「恵美」と呼んでいた頃の目だった。
私はそっと、唇を重ねた。
部屋は、二人の甘い吐息に包まれていた。

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