82話「名前で呼んでいた頃」

ある雨の夜、私は恵美さんのマンションに向かった。

月に一度の売上報告や、店の近況を話すためだ。

インターホン越しに恵美さんの声が響く。

「そのまま上がってきて。鍵は開いてるから」

静かな室内に入ると、恵美さんはワイングラスを片手に、リビングのソファーに座っていた。

「あなたはコーヒーでいいのよね」

恵美さんはワイングラスをテーブルに置き、キッチンでコーヒーを淹れ始めた。

部屋の中には、コーヒーを淹れる音と、窓にあたる雨音だけが響いていた。

「月下美人、順調そうね。最近ちらほらと噂を耳にするわよ」

恵美さんは私の前にコーヒーを置きながら言った。

「そうですか。良い噂だといいんですが、悪い方に目立ち始めてないですか?」

私はテーブルの上に広げていた領収書の束を整理しながら言った。

「どの業界も同じだけど、新しいものが出てくると良くも悪くも注目されるものよ。

でも、この世界は裏の人間ばかり。足をすくわれないように気を付けなさいよ」

私はこの間の、小指のない男と派手な女性の顔を思い出した。

あのときは運よく丸く収まった形になったが、ひとつ間違えていたら、全く違う結果になっていたかもしれない。

この業界、そんな情報はすぐに知れ渡る。

一度そういう弱みを見せれば、ハイエナのように次から次へとやってくる連中ばかりだ。

伝票を整理しながら、そんなことを考えていた。

「ねぇ」

私の視界を遮るように、恵美さんの手がひらりと振られた。

我に返る。

「あなた、刺青仕上がったんでしょ。お任せの鯉。

彫り師の先生が、良い出来だって言ってたわよ」

「見てみますか?」

私は無意識に口にしていた。

「……うん」

恵美さんは、どこか熱を帯びた目をしていた。

私は立ち上がり、恵美さんにゆっくり背を向け、シャツを脱いだ。

恵美さんがそっと手を伸ばし、背中に触れる。

その瞬間、昔付き合っていた頃の記憶がふわりと蘇り、二人の間に微妙で妖しい空気が漂った。

「……ほんとに……きれい」

恵美さんの声は柔らかく、どこか熱を帯びている。

恵美さんは、そっと優しく私の背中に抱きついた。

恵美さんとは、はっきりとした別れはなかった。

私が店を辞めた後、自然消滅だった。

嫌いになった訳ではない。

ただ、何となく流れに任せただけだった。

微妙な沈黙と、言葉にできない感情の揺れが部屋に漂う。

内心では、その空気に身を委ねそうになるのを抑えていた。

「あなたが、突然店を辞めたとき……私……」

恵美さんの消え入りそうな声が、背中越しに聞こえた。

私は恵美さんに向き直り、抱きしめた。

恵美さんは私に身を委ねるように抱きついてくる。

私はぎゅっと、力強く抱きしめた。

「もっと抱きしめて……もっと……もっと」

時間が止まったかのように、二人は抱き合っていた。

部屋の中には、激しくなった雨音だけが響いている。

私は恵美さんの頬を両手で包み込み、顔を見た。

付き合っていた頃──

私が「恵美」と呼んでいた頃の目だった。

私はそっと、唇を重ねた。

部屋は、二人の甘い吐息に包まれていた。

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