268話「バハラナ」

私は弘の話を聞いて、ふと早苗の言葉を思い出した。

『私もリトに会ってみたいな。あなたの話を聞いてると、きっといい人だと思う』

私は静かにリトへ向き直った。

「リト。一つ話しておきたいことがあるんだ」

リトは不思議そうに私を見る。

「ナニ?」

私はマンゴージュースを一口飲み、小さく息をついた。

「今度、リトに会わせたい人がいる」

「会わせたい人?」

「ああ。早苗っていう女性なんだけどな」

リトは首を傾げた。

「ミオじゃないノ?」

私は静かに首を横へ振る。

「いや、違う」

少しだけ間を置く。

「実は元々、俺には早苗という彼女がいるんだ」

リトは何も言わず、黙って耳を傾けている。

「早苗は、俺が何もない頃からずっと支えてくれた。拘置所を出て、何も持っていなかった俺を信じ続けてくれた人なんだ」

私は一度言葉を切り、美緒の笑顔を思い浮かべた。

「そのあと美緒と知り合って、一緒に仕事をするようになった。毎日一緒に過ごしているうちに……気づけば惹かれていた」

私はテーブルへ視線を落とした。

「今の俺は、早苗も美緒も、二人とも愛してる」

しばらく沈黙が流れた。

リトは驚いたような表情を浮かべたが、やがて優しく微笑んだ。

「ソウだったのカ……」

私は静かに頷く。

するとリトは少し笑いながら言った。

「でも、なんとなく分かってたヨ」

私は思わず顔を上げた。

「分かってた?」

「ウン。ナオトだったら仕方ないヨ」

私は苦笑いを浮かべる。

「どういう意味だ、それ」

「だってポギーだし、優しいからネ」

「褒めてるのか、それ」

「もちろんだヨ」

二人で思わず笑った。

笑い声が落ち着くと、リトは少し真剣な表情になった。

「ナオト。バハラナって知ってる?」

私は首を横へ振る。

「いや、知らない」

「タガログ語だヨ」

リトはゆっくりと言葉を続けた。

「『もう仕方ない』『なるようになる』っていう意味ネ」

私は黙って耳を傾ける。

「二人の女の子を愛してしまったなら……それはバハラナだヨ」

私はその言葉を静かに繰り返した。

「バハラナ……」

「ウン。もう愛してしまったなら仕方ないヨ」

リトは少し間を置き、まっすぐ私を見つめた。

「ナオトはミオかサナエさん、どっちか選べるノ?」

私は何も答えられなかった。

リトは優しく微笑む。

「できないでしょ?」

私は小さく頷いた。

「……ああ」

「だから前へ進むしかないネ」

私は小さく笑った。

「そうか」

胸につかえていた何かが、少しだけ軽くなった気がした。

リトはマンゴージュースを一口飲み、いつもの笑顔を見せる。

「だからサナエさん紹介してヨ。ミオにも会いたいし、サナエさんにも会ってみたいネ」

「分かった。今度リトに会わせるよ」

「ウン。ナオトが愛した人なら、きっと素敵な人なんだろうナ」

私は静かに頷いた。

リトに話して良かった。

そう思えた。

店内では女性ボーカルがタガログ語の静かで切ない歌を歌っていた。

その歌声は穏やかな夜の空気に溶け込むように、いつまでも優しく響いていた。

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