181話「思っていたより良い一日」

マンションの部屋に入ると、ようやく一息つくことができた。

今日はいろいろなことがあった。

取置き商品の販売。

そして予想していなかった新しい出会い。

口コミで少しずつ広がり始めた仕事。

決して大きな出来事ではない。

それでも確かな手応えがあった。

「お疲れさま」

後ろから美緒の声が聞こえる。

振り返ると、美緒が柔らかく微笑んでいた。

「お疲れ」

そう返すと、美緒は私の隣へ腰を下ろした。

ソファに並んで座る。

部屋の中は静かだった。

さっきまでの賑やかな空気が嘘のように感じる。

「嬉しかった?」

美緒が聞いてきた。

「何が?」

「今日のこと」

私は少し考えた。

そして素直に答える。

「嬉しかったな」

美緒が小さく笑う。

「やっぱり」

「分かるのか?」

「分かるよ」

そう言って私の肩にもたれた。

シャンプーの香りがふわりと漂う。

「最初は売れるかどうかも分からなかったのにね」

「そうだな」

「それが口コミで広がってる」

美緒はどこか自分のことのように嬉しそうだった。

「頑張ってきて良かったね」

その言葉に私は思わず笑う。

「まだ始まったばかりだろ」

「うん。でも今日くらいは喜んでいいと思う」

美緒はそう言いながら私の手を握った。

温かかった。

仕事の話をしているはずなのに、不思議と心が落ち着いていく。

しばらく何も話さない時間が続く。

それでも居心地は悪くなかった。

むしろ心地良かった。

美緒がそっと顔を上げる。

目が合った。

「どうした?」

そう聞くと、美緒は少しだけ照れたように笑う。

「直人さん、今日は少し嬉しそうだから」

そう言って私の肩に頭を預けた。

私はその髪を優しく撫でる。

私の指が髪に触れると、美緒は安心したように小さく息を漏らした。

静かな時間だった。

窓の外から聞こえる街の音だけが、かすかに部屋へ届いている。

美緒は私の肩に頭を預けたまま動かない。

「眠いのか?」

そう聞くと、小さく首を振った。

「違う」

「じゃあ何だ?」

「こうしてるのが好き」

少し照れたように言う。

私は思わず笑った。

「そうか」

「うん」

美緒も笑う。

そのまま顔を上げると、私を見つめてきた。

優しい目だった。

仕事の話をしていた時とは違う。

二人だけの時間の顔だった。

「今日ね」

美緒が静かに言う。

「なんか嬉しかった」

「販売のことか?」

「それもあるけど」

少し考えてから続ける。

「直人さんが嬉しそうだったから」

私は苦笑した。

「そんなに分かりやすいか?」

「分かりやすいよ」

美緒はそう言いながら私の腕に抱きつく。

柔らかな温もりが伝わってくる。

「頑張ってるのずっと見てきたから」

その言葉に胸の奥が少し温かくなった。

美緒は私以上に、私のことを見ている時がある。

嬉しい時も。

落ち込んでいる時も。

何も言わなくても気付かれてしまう。

「ありがとう」

自然とそんな言葉が出た。

美緒は少し驚いた顔をしたあと、嬉しそうに笑う。

「どういたしまして」

そう言って、私の肩へもう一度頭を預けた。

私はそっとその肩を抱き寄せる。

美緒は抵抗することなく身を任せてきた。

部屋の中には静かな時間だけが流れていた。

仕事の話も。

将来の話も。

今は何もいらなかった。

こうして隣にいるだけで十分だった。

しばらくすると、美緒がふっと立ち上がる。

「どうした?」

私が聞くと、美緒はいたずらっぽく笑った。

「おいで」

そう言いながら私の腕を引きベッドに行く。

私はその意味に気付き、小さく笑った。

「またか」

「いいから」

美緒がベッドボードにもたれ膝を軽く叩く。

私は素直に横になった。

頭の下に柔らかな感触が伝わる。

見上げると、美緒が優しく微笑んでいた。

「お疲れさま」

その言葉と一緒に髪を撫でられる。

今日一日の疲れが少しずつ溶けていく気がした。

「頑張ったね」

「まだまだだよ」

「それでも頑張った」

美緒はそう言って笑う。

そしていつものようにミミククリン手に取った。

いつもの、ひんやりした感触といい匂い。

今日の出来事がゆっくり頭の中を流れていく。

取引。

新しい出会い。

広がり始めた口コミ。

少しずつ前に進んでいる実感。

そして――

最後に残るのは、美緒の温もりだった。

「眠くなってきた?」

上から優しい声が降ってくる。

「少しな」

そう答えると、美緒がくすりと笑う。

私はその笑い声を聞きながら目を閉じた。

今日という一日は、思っていたよりもずっと良い一日だった。

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