84話「何も知らない朝」

マンションの駐車場に車を停め、エンジンを切る。

夜通し降っていた雨の匂いが、まだわずかに立ちこめていた。

ドアを開けると、早苗が玄関に駆け寄り少し眉を寄せて言った。

「遅かったね、心配したんだよ」

普段より少しだけ声が強い。

「ごめん、ちょっと事務所で弘と話してたんだ」

私は、早苗の顔を見ず靴を脱ぎながら言った。

早苗の眉がゆるみ、表情が一気に柔らかくなる。

「そう…よかった。何かあったのかと心配したんだから」

安心したように微笑むその顔を、壊したくない――自然にそう思った。

リビングに入ると、いつも通りの部屋の匂いが広がる。

キッチンでコーヒーを淹れる早苗の姿。

カーテン越しに朝の光が差し込み、部屋の中が淡く照らされていた。

「コーヒー淹れたから飲むでしょ」

早苗が振り返りながら声をかける。

「ありがとう」

軽く笑いながらソファーに腰をおろす。

早苗がマグカップを二つ持って、私の横に座る。

まだ朝早い時間で、外は静かだった。

「弘君、また何かあったの?」

熱いコーヒーをフーフーと冷ましながら聞く。

「いや、弘に何かあった訳じゃないんだ。大介の車がボロくてさ。だから新しく車を用意した方がいいか話してたんだよ」

私は早苗を見ず、前を向いたまま言った。

大介の車が古くてガタがきているのは事実だが、このタイミングで咄嗟に口から出てきたことに、自分でも少し驚いた。

「あっ、それなら私の車使ってていいよ。最近あんまり使ってないから。軽だけど中は結構広いよ。車が必要なときはあなたの車があるから」

早苗はハンドルを握る動作をしながら笑った。

やがて私たちは自然とベッドに移動して横になった。

早苗は私に抱きつき、すぐにうとうとと眠りに落ちる。

柔らかな寝息が耳に届き、体の重みも温かさも、匂いも、すべてが早苗だった。

私はその寝顔を見ながら、ぼんやりと考えごとをする。

恵美さんのこと――昨日の夜のこと――そして早苗のこと。

早苗と恵美さんの顔が、交互に頭に浮かぶ。

早苗の寝顔を眺めながら、二人のことを考える。

自分勝手なのは分かっている。

早苗との生活は壊したくない。

でも、恵美さんとの関係も壊したくない。

早苗は私が護っていく人。

恵美さんは失いたくない人。

護る。失う。

その言葉が頭の中で静かに巡る。

窓の外から、車の走る音、鳥の鳴き声、人の行き交う足音が聞こえる。

いつもの朝。日常が動きはじめていた。

私はそのまま、早苗の温もりを感じながら、静かに目を閉じた。

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