弘に美緒のマンションまで送ってもらった。
駐車場には美緒の車が停まっている。
私はマンションを見上げた。部屋には温かそうな灯りが灯っている。その灯りを見ただけで、どこか張りつめていた気持ちが少し緩んだ。
部屋の前まで行きインターホンを押すと、すぐにドアが開き、美緒がいつもの優しい笑顔で迎えてくれた。
「おかえり」
「ただいま」
自然と私の顔もほころぶ。
リビングへ入ってソファーに腰を下ろすと、美緒は何も言わず部屋着を手渡してくれた。
私はジャケットを脱いで着替え始める。
その間に美緒はジャケットをハンガーへ掛けると、
「コーヒー淹れるね」
そう言ってキッチンへ向かった。
私はソファーにもたれ、今日一日の出来事を思い返していた。
リトと交わした会話。
早苗のこと。
美緒のこと。
そして、頭の中にまたあの言葉が浮かぶ。
『バハラナ』
――もう仕方ない。
――なるようになる。
言葉の意味は分かる。
けれど、心はそう簡単に割り切れない。
早苗には美緒とのことを隠し、嘘をついている。
美緒は早苗の存在を知ったうえで、私のそばにいてくれる。
このままでいいはずがない。
考えれば考えるほど、自分は狡くて嘘つきだと思う。
どちらか一人を選べば済む話なのかもしれない。
それでも、その答えを出せない弱さもまた、私自身だった。
そんなことを考えていると、不思議とまた『バハラナ』という言葉が浮かんでくる。
「はい、コーヒー」
美緒の優しい声で我に返る。
見ると、美緒が湯気の立つカップを差し出していた。
「ありがとう」
カップを受け取ると、美緒は私の隣へ腰を下ろした。
「今日は午前中から動いてたから疲れてるんじゃない?」
そう言って私の顔を覗き込む。
「ああ、そうかな」
私は苦笑いを浮かべる。
美緒はカップをテーブルへ置くと、
「ちょっと手、貸して」
そう言って私の両手を優しく包み込み、ゆっくりとマッサージを始めた。
「リトとの話はどうだった?」
私はリトと話した増築のこと、ジョアンがフィリピンで動いてくれていること、そして藤本や弘との出来事を一つひとつ話した。
美緒は何も口を挟まず、静かに頷きながら聞いている。
話し終えると、美緒は立ち上がった。
「ちょっと待ってて」
そう言って部屋の奥から小さなポーチを持って戻ってくる。
私の隣へ座ると、膝を軽く叩きながら微笑んだ。
「おいで」
私は思わず苦笑いする。
「また耳掃除か?」
「うん」
美緒は嬉しそうに頷き、ポーチからミミククリンを取り出した。
私は素直に美緒の膝へ頭を預け、静かに目を閉じる。
美緒は綿棒にミミククリンをつけ、優しく耳を撫でる。
その心地よさに、全身の力がゆっくりと抜けていった。
「エージェントの仕事、私にもできることがあると思うから、何でも言ってね」
「うん……ありがとう」
自然と言葉が口をついた。
美緒は少し驚いたように私を見る。
「今日は素直に『ありがとう』って言うんだね」
そう言って、ふふっと笑った。
私も小さく笑う。
『バハラナ』
その言葉を胸の中でそっと繰り返す。
美緒と早苗――二人の笑顔が静かに浮かんでは消えていく。
答えは、まだ見つからない。
それでも今は、この温もりだけを感じていたかった。
私は美緒の膝のぬくもりに包まれながら、いつの間にか深い眠りへ落ちていった。

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