270話「ぬくもりの中で」

弘に美緒のマンションまで送ってもらった。

駐車場には美緒の車が停まっている。

私はマンションを見上げた。部屋には温かそうな灯りが灯っている。その灯りを見ただけで、どこか張りつめていた気持ちが少し緩んだ。

部屋の前まで行きインターホンを押すと、すぐにドアが開き、美緒がいつもの優しい笑顔で迎えてくれた。

「おかえり」

「ただいま」

自然と私の顔もほころぶ。

リビングへ入ってソファーに腰を下ろすと、美緒は何も言わず部屋着を手渡してくれた。

私はジャケットを脱いで着替え始める。

その間に美緒はジャケットをハンガーへ掛けると、

「コーヒー淹れるね」

そう言ってキッチンへ向かった。

私はソファーにもたれ、今日一日の出来事を思い返していた。

リトと交わした会話。

早苗のこと。

美緒のこと。

そして、頭の中にまたあの言葉が浮かぶ。

『バハラナ』

――もう仕方ない。

――なるようになる。

言葉の意味は分かる。

けれど、心はそう簡単に割り切れない。

早苗には美緒とのことを隠し、嘘をついている。

美緒は早苗の存在を知ったうえで、私のそばにいてくれる。

このままでいいはずがない。

考えれば考えるほど、自分は狡くて嘘つきだと思う。

どちらか一人を選べば済む話なのかもしれない。

それでも、その答えを出せない弱さもまた、私自身だった。

そんなことを考えていると、不思議とまた『バハラナ』という言葉が浮かんでくる。

「はい、コーヒー」

美緒の優しい声で我に返る。

見ると、美緒が湯気の立つカップを差し出していた。

「ありがとう」

カップを受け取ると、美緒は私の隣へ腰を下ろした。

「今日は午前中から動いてたから疲れてるんじゃない?」

そう言って私の顔を覗き込む。

「ああ、そうかな」

私は苦笑いを浮かべる。

美緒はカップをテーブルへ置くと、

「ちょっと手、貸して」

そう言って私の両手を優しく包み込み、ゆっくりとマッサージを始めた。

「リトとの話はどうだった?」

私はリトと話した増築のこと、ジョアンがフィリピンで動いてくれていること、そして藤本や弘との出来事を一つひとつ話した。

美緒は何も口を挟まず、静かに頷きながら聞いている。

話し終えると、美緒は立ち上がった。

「ちょっと待ってて」

そう言って部屋の奥から小さなポーチを持って戻ってくる。

私の隣へ座ると、膝を軽く叩きながら微笑んだ。

「おいで」

私は思わず苦笑いする。

「また耳掃除か?」

「うん」

美緒は嬉しそうに頷き、ポーチからミミククリンを取り出した。

私は素直に美緒の膝へ頭を預け、静かに目を閉じる。

美緒は綿棒にミミククリンをつけ、優しく耳を撫でる。

その心地よさに、全身の力がゆっくりと抜けていった。

「エージェントの仕事、私にもできることがあると思うから、何でも言ってね」

「うん……ありがとう」

自然と言葉が口をついた。

美緒は少し驚いたように私を見る。

「今日は素直に『ありがとう』って言うんだね」

そう言って、ふふっと笑った。

私も小さく笑う。

『バハラナ』

その言葉を胸の中でそっと繰り返す。

美緒と早苗――二人の笑顔が静かに浮かんでは消えていく。

答えは、まだ見つからない。

それでも今は、この温もりだけを感じていたかった。

私は美緒の膝のぬくもりに包まれながら、いつの間にか深い眠りへ落ちていった。

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