41話「境界線の向こう側」

静かな朝を迎えた。あの「起床ー!」という号令で目覚めなくていいのかと思うだけで嬉しかった。

だが、あの爽やかなクラシックの音楽は、この朝の方がよほど似合っている気がした。

コーヒーの良い香りがする。

この当たり前の朝を迎えられるだけで、幸せを実感できた。

早苗が淹れてくれたコーヒーを飲むのも本当に久しぶりだ。

コーヒーを口にしながら、まず今日やるべきことを整理する。

井原君への面会。

保護司へ報告するための仕事場の連絡先の確保。

世話になった人たちへの連絡。

夜は陣さんたちへ手紙を書く。

夕方までには帰ると早苗に告げてマンションを出る。

まず向かったのは拘置所だった。

昨日の朝まで生活していた場所だが、一度外に出てしまうと景色がどこか違って見えた。

面会の手続きをしていると、見覚えのある刑務官が笑いながら言った。

「お前、昨日出たのにもう戻って来たのか。そんなにここが居心地良かったか?」

笑った顔など見たことがなかったので少し驚いた。塀の中と外では、見せる表情もこんなに違うのかと思った。

面会待合室には数人が座っていた。

暴力団関係者らしき人たちは普通に会話しているが、一般の面会者は病院で診察を待つ時のように静かで、うつむきがちだった。

番号を呼ばれて面会室に入る。

仕切り板の向こうのドアにある確認用の小さな窓が開き、すぐ閉じられ、やがてドアが開いて井原君が入ってきた。

席に着く前に、満面の笑みで言った。

「良かったですね!おめでとうございます」

昨日まで隣に座っていた井原君が、今日は仕切りの向こう側にいる。

時間も気にせず話していたのに、これからは限られた時間しかない。

薄い仕切りが、塀の内と外を分ける壁そのもののような境界線に感じられた。

寂しさと外に出られた実感が入り混じり、言葉にできない感情が胸に残った。

拘置所を後にしてマンションへ戻ると、早苗が荷物を片付けている途中だった。

「これ」

差し出された袋の中身は、懲役になると思って最後に買った嗜好品だった。

ベビーハム、板チョコ、マヨネーズ、醤油、甘露飴――。

拘置所では貴重品のように棚へ大事に並べていたものだ。

だが外で見るそれらは、一日しか経っていないのにどこか色褪せて見えた。

邪険に扱ってはいけない気がして、袋を閉じて戸棚へそっとしまう。

この袋の中には、拘置所で過ごした時間の想いが詰まっているように思えた。

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